日記・コラム・つぶやき

徒然日記 Vol 661

五月の風に吹かれて

 あさ子さんから、こんな俳句が寄せられた「麦の秋 黄金色(こがね)の波に 揺られけり」。この句に出会い、麦秋の季語は、初夏と知った。あなたの好きな季節は?と聞かれたら、この初夏の季節と答える私だ。特に、五月は、年間を通して、一番好きな月だ。先日、夕方にバイクを走らせていたら、麦の畑に出会った。黄金の麦の穂が、風に揺れていた。何気ない景色だが、畑の端っこに立ち、爽やかな五月の風に吹かれながら、心洗われるひと時を過ごした。

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徒然日記 Vol 660

子どもたちに支えられて

 発達障害児のデイで働き始めて、一週間が過ぎた。デイには、小学一年生から中学三年生までの10数名の子どもたちがいて、毎日来る子どもや、週に三日程度の子どももいる。なおかつ、通学する学校も様々で、まだ、全員の名前や学年や学校を覚えられない。毎日、子どもたちの下校時間に合わせて、職員が迎えに行き、デイまで送り、そして夕方には、自宅まで送ることになる◆職員は、私を入れて、4名から5名。午前中は、受け入れのための準備等で、ゆっくりした時間が流れるが、15時前から、迎えに行く職員が動き始め、15時過ぎから、それぞれの子どもたちがやって来る。先日は、気がつけば、私以外の職員は迎えに行き、私一人で、子どもたちの5~6人、という日もあった。私も、少しずつ学校や子どもたちの自宅を覚えて、送迎に参加している◆子どもたちは、年齢も性別も、個性も様々だ。何故に障害児というレッテルが張られているのか、疑問に思う子どもたちもいる。数十年前であれば、少し変わった子と言われるような子どもたちが、見過ごされてきたものの、現代では、早期に発見し、 類型的に障害を見極めていることにあるのかもしれない。しかし、個性豊かな子どもたちを見る時、何を持って「障がい」と言うのか、いささか疑問を持っている◆ある中学生の男子は、私に会うなり「先生って、ヤクザみたいだね」と、臆面もなく言い放つ。私が、ずっと座り続けて、足が痛くなり立ち上がり「いててて」と言っていると、小学三年生の女子が近づき、足をさすってくれたりもした。知的障害児の施設で働いている頃もそうであったように、今も、子どもたちに支えられて、働いている自分がいる。これからも、目の前の子どもたちに寄り添い、自分なりに、できることをしていこうと思っている。

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徒然日記 Vol 659

畑を耕し草を刈る

 5月の連休は、三泊四日で、久しぶりに高森に行ってきた。日中のほとんどを、外で過ごした。畑を耕して、サツマイモやトマトや紫蘇やアスパラガスの苗を植えた。小雨の中、合羽を着て、草刈機を抱えて、雑草を刈ったりもした◆入り口の坂道にたまった枯葉と土を、スコップ片手に片付けた。久しぶりに身体を動かして、汗をかき、夜には、美味しいビールをいただいた。お風呂は壊れていて、お湯が出ないので、温泉に行った◆といっても、4日間の内、二回しか行かなかった。いずれは、屋外にドラム缶のお風呂をつくり、星を観ながら、お湯につかるのを楽しみにしている◆晴耕雨木の日々を夢見て、数十年。目が見えて、手元も動いて、足腰も元気なうちに高森に移り住み、85歳ぐらいまでは生きていたいと思っているが、この先どうなることやら。一先ずは、二年間ほどは、放課後デイの仕事を続けようと思っている。夢を諦めずに、頑張らなくては。

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徒然日記 Vol 658

やり直しの日々が始まる

 私の夢のひとつに、障がい児関連の仕事をもう一度やってみたい、というのがあった。四期目の市議選に落選したことで、近隣の知人の方のおかげで、発達障害児のデイで働くとこととなり、夢が叶った。元気ならば75歳までOKとのこと。この先、何年かは頑張ろうと思っている。私は、20数年来、障がい児施設の指導員として県立肥後学園で働いた。多くの子どもたちと出会った。みんなそれぞれに個性があり、今でも、時々、関わった子どもたちの事を思い出す。楽しかった思い出と共に、当時の私の療育は、間違っていたのでは?と、思う時がある◆子どもたちに本当に寄り添っていたのか?子どもたちの心を傷つけてはいなかった?療育と言う名を借りての押しつけだったのでは?等々。一つの例として、自閉的傾向のU君のことを思う時、自責の念に駆られる。彼は、五感が人より以上に鋭く、お風呂のタイルの感触が嫌いで、つま先立ちで浴槽まで歩いていた、木工班に所属していた時、機械にスイッチが入り動き出すと、その大きな音に耐えられず、耳をふさぎ、外に飛び出していた。私は、その環境に慣れることが大切だと思っていた◆当時の療育の考え方は、社会の様々な環境に合わせることができるように、ということで、様々な経験のもとに、その子の嫌だと思うことも克服するように、というもの。環境に合わせて、その人を変えていくというもの。いま思えば、耐えらないような空間に、引き戻していた私は、その子にとっては、悪魔のような存在ではなかったろうか。現在の療育の考え方は、大きく変わり、その人に合った環境を設定し、生活や仕事などができるようにすることにある◆音に敏感な人が、イヤーマフやノイズキャンセリング機能付きのヘッドホンをつけて、働いている職場もある。人付き合いが苦手な人ならば、一人で作業ができる空間を準備している企業もある。5月の連休明けから、私の懺悔ともいえる、やり直しの、発達障害児のDAYでの仕事が始まる。まずは、一人ひとりの子どもたちと触れ合い、それぞれの個性を把握し、受け止めることから始めようと思っている。そして、その子にとって必要な環境は何なのかを、きちんと整理できるようにしようと思っている。肩の力を抜いて、テクテクと一緒に歩けたらばいい。

↓ エケベリア/七福神の花

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徒然日記 Vol 657

我が心に、亡くなった人たちが生きているように

 私には孫が二人いる。18歳になり、この春から働き始めたR男と、中三15歳のN美。誰に似たのか、二人とも朗らかで、優しくて、いつも私たちを和ませてくれる。R男は、高校時代までは、毎朝、起こさなければならなかったが、働き始めてからというもの、自分で早起きして出かけるようになった。職場では、皆から可愛がられているようだ◆N美はといえば、不器用なR男に比べ、要領がよく、甘えるのが上手で、家の手伝いを頼んでも、すぐに動かないことが多い。それでも、少しずつ成長し大人になっていくのだ。あと、10年もすれば、それぞれに彼女や彼氏ができて、いずれ結婚するのだろう。いつの事かはわからないが、ひ孫の顔を見るまでは生きていたいと思う◆二人は、殆んど喧嘩もすることなく、仲が良く、時折、猫のようにじゃれ合ったりしている。彼らが、子どもを産み育てる頃、この世界はどんな風になっているのだろうか。市議会議員として、心を育み、人を育て、明るい未来を築くために、そして、子どもたちの未来のためにと、汗してきた。しかし、この世界の未来は、あまり明るくはないような気がする◆二人が、いつの日か、幾度か大きな壁にぶつかる時に、お互いに助け合って、乗り越えてほしいものだ。その時に、私がいないことが、思いのほかに寂しく、悲しい。亡くなってしまった身内や、親戚や、先輩などの多くの人たちが、今でも、私の心の中に生きているように、いつの日か彼らの心の中に、私がいることを願っている。

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徒然日記 Vol 656

桜咲く いつかは叶えぞ 天下人

 4月30日で、市議会議員の肩書が外れ、5月1日から、いち市民となった。当日は、議員に与えられた年間240万円の政務活動費(市民の皆さんの税金)の収支報告書を提出する日ということで、会派の市民連合に行き、書類を整理し提出してきた◆その他には、議員に貸与されていた、iPadや駐車券などを返還した。議会事務局入り口にある議員が登庁時にタッチするパネルは、当選した議員の名前に新しく打ち変えられていた。当然、私の名前はそこには無い◆報告書の提出の際に、議会事務局の職員に、ある写真を手渡した。写真の裏には「桜咲く いつかは叶えぞ 天下人」と書いた。相手は、新人の瀬尾議員だ。告示前に出馬して北区3位で当選したタレント議員だ。選挙戦の最中に、桜の咲く公園で出会い、私と一緒に写った写真があったので、俳句を添えて渡してもらうことにした◆公園で会うなり、彼に「あなたの政策は?」と問うた時に、即座に答えられず、私から「観光じゃ~?」と、言って、別れた青年だ。今後、議会には、以前の仕事の熊本城の戦国武将隊のイメージで、袴をはいて来るそうだ。私の年齢の半分ほどの青年が、パフォーマンスだけでなくて、これから、議会で、どんな質問や提言等をしていくのか、注視したいものだ。

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徒然日記 Vol 655

契りたがわず

 晴れた日の午後から、母と連れ合いの三人で、知り合いの方の紹介で、大津のギャラリー水車小屋に行ってきた。知り合いの方は、自宅近隣にお住まいの女性Yさん。母の絵手紙の教室の仲間で、カメラや、ひょっとこ踊りをされたりと、多趣味で元気な方だ。そのYさんが、夏目漱石顕彰「草枕」国際俳句大会の写真俳句部門で、大賞の次点の特選に選ばれた。彼女の作品など入賞された方たちの作品が、展示されていた◆Yさんの作品は、山鹿灯篭の女性の写真と「星合や契りたがわぬ夢枕」(星合ホシアイ:七夕)の俳句。まるで一幅の絵画のような写真と、美しい天の川が見えるような句が溶けあった、情感豊かな、素敵な作品だ。大賞に選ばれたのは、満開の桜の木とその下を走る郵便局員の赤いバイクの写真で、俳句は「村の子が待ちし一通春の朝」というもの◆ギャラリーは、昔は水車小屋で麦などをひいていた場所で、階下には、でっかい古びた水車が、今も残っている。静かな癒しの空間で珈琲を飲みながら、私は7年前の地震後の日々を思い起こしていた。地震の際、彼女は、武蔵コミセンに避難された多くの高齢者や子どもたち等のお世話を、ボランティアで一カ月近く頑張った方でもある。私の母も、武蔵コミセンに避難して、助けていただいた。彼女は、元看護師長ということもあり、ボランティアや避難者の方たちと協力しての、食事の準備や、高齢者の見守りなど、献身的に、そしてリーダー的な役割を担っていただいた◆コミセンには、ボランティアで、毎日水を確保するために遠くまで水汲みに行く人、高齢者の移動時に手を貸す人、トイレの掃除をする人、配膳や後片付けをする人など、子どもたちから、高齢者まで、皆で助け合う姿があった。そんなことを思い出しながら、「契たがわぬ」を、あの地震後の光景に絡めて、勝手に解釈を広げる私がいた。契りの意味には、約束や誓いや宿縁などがある。私は、またいつか地震があったら、Yさんも私も、多くの人たちも、何の約束も誓いもしてはいないが、あの地震の縁をもとに「契たがわず」皆のために汗することだろう、と思ったものだ。

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徒然日記 Vol 654

K女史のこと

 この熊本で、私に元気をくれる三人の女性がいる。言わずもながの連れ合い、あさ子ばば。そして、K女史だ。K女史とは、10年ほど前に村上市議に紹介された方だ。車いすでの暮らしを永くされている。県や市の福祉に関わる委員など市民の代表としても、活躍されてきた。地域の中で、住み慣れた家で、いつまでも暮らせることを願って、自分自身だけでなく、障がい者や、高齢者のために活動をされている方だ。私は、彼女に対する、市としての福祉サービスの在りようが、私たちの将来の暮らしを左右する、と思っている◆そういった意味で、K女史には「私にとってのリトマス試験紙」と言ってきた。おつき合いをさせていただいたこの間、市の福祉サービスの脆弱さや、縦割り行政の弊害、働くヘルパーの不足や、その資質のあり方など、多くの課題等が明らかになった。その都度、いくつかの指摘や助言をもらいながら、改善に向けて取り組んできた。しかし、私の思うところの福祉社会には程遠く、私が生きている間に実現は不可能だと思っている◆元気だった高齢者が、認知症や障がい者となったその時に「なんだこのサービスは」と、憤っても、手遅れであり、それが日本の福祉なのだ。市議として、もう一期務めて、やり残したことに取り組むつもりだった。だが、それも叶わない。K女史は、後援会のメンバーだが、コロナの感染などの危惧もあり、役員会や総会などにはなかなか参加ができない身だ◆しかし、家に出入りされるヘルパーさんなどに、私の紹介をして、支持者拡大に取り組んでいただいた。ある意味、彼女の家が、私の宣伝の拠点にもなっているのだ。選挙前には、後援会に寄付もいただいた。落選した後も、選挙情勢や、後援会組織の今後や、私の身の振り方等含めて、俯瞰的な視点からの貴重な助言や励ましをもらっている。これからも、私を支えていただく大切な方だ。議員の身分は無くしたが、この先、自分に出来ることとして、K女史の暮らしを支える取り組みを、継続していかなければと思っている。

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徒然日記 Vol 653

天からのもらい水を授かって

 この春に知り合った、88歳のあさ子さんには、選挙前から、そして落選してからも、ずっと元気をもらっている。選挙事務所に、リュックを背負い、バス二本を乗り継いで、タケノコと紹介者カードと笑顔を届けていただいた。いつだったか、あさ子さんに、元気の源は何ですか?と聞けば、「天からのもらい水」との返事。あさ子さんから、天からのもらい水を授かり、その水は、足元から、そして今は全身を流れているような気がする。あさ子さんの元気を、皆に分けてあげようと思い、歌を作った。まだメロディが未完成。いくつか歌ってみるが、軍歌のような、童謡のような雰囲気になり、納得できない。いつか、完成したら、あさ子さんの前で、ギターを抱えて、歌いたいと思っている。

 あさ子ばばの歌

1 リュックに夢を詰め込んで

  笑顔と一緒に運ぶ人

  あさ子ばばは今日も行く

  みんなのためにたった一人

2 あさ子ばばの力の元は

  天から授かるもらい水

  僕にも分けてくださいな

  天から授かるもらい水

3 天から授かるもらい水

  みんなに分けてあげましょう

  夢と笑顔を運びましょう

  一緒にみんなに届けましょう

4 あさ子ばばの力の元は

  天から授かるもらい水 

  誰でももらえるもらい水

  誰でももらえるもらい水

 

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徒然日記 Vol 652

猫八匹と猫大好き女と猫大嫌いな男の行く末は

 名古屋の大学時代に知り合った友人で、今は神戸に住む、F男とK女夫婦がいる。卒業して、45年を過ぎたが、今も、時々会ったりもしている。私の結婚披露宴にも来てくれて、新婚旅行にも二人一緒に同行し、福岡の居酒屋で4人で祝盃を上げた。阪神淡路大震災の時には、翌年にお見舞いも兼ねて、二人の自宅を訪ねた。北海道の一人旅の時も、立ち寄って泊めてもらった。そして、熊本地震の際には、すぐに二人で駆けつけて、数日間、片づけ等を手伝ってくれた。先日、K女に、私の自作のスマホスピーカーを送るからと、連絡して話をした。その時に、F男の話になった。神戸のある駅で、白髪の老人が、紙袋を持って、ぼーっと立っていた。浮浪者かな?と思ってよく見たらば、わが連れ合いだった、と言う。笑ってしまった◆「それが彼のライフスタイルじゃん」と言う話から、大学一年生の時の話をした。(ちなみにK女は一年下)。彼は大学に来る時に、いつも、ぼさぼさの長髪で、夏も冬も、真っ黒なロングコートを羽織り、その背中には真っ赤なランドセルをしょって歩いていた。異様なその姿に、最初、彼のことを知らない私たちは「絶対近づかんとこ」と決めていた。就職した会社の初日の朝礼の雰囲気が嫌で「こりゃ続かん」と、一日で退社した男だ。住まいが無く、即席ラーメンを持って、クラスの知り合いの所を泊まり歩いた男だ。バイトで、朝から何も連絡が無いまま「おはようございます」と、夕方やって来る男だ。なのに、だからか、今に至り、一生の友となった。なってしまった◆赤いランドセルの話をして「今も変わらないF男じゃない。それが彼でしょう。ある意味、素晴らしいこと」と言うと、K女が「うそ~。赤いランドセルの話は聞いたことがあるけど、それって彼が芝居をしていた時の、役柄の話じゃ~?」と言う。今頃になって、それが本当であり、その姿で一年間ほど大学に通っていたことを、45年を過ぎて初めて知ったのだ。「ウソ~知らんかった。だまされた」と言うK女。腹を抱えて、笑ってしまった。何も変わらず、あのまんまで生きているF男と暮らすK女に、私は「今頃になって彼のライフスタイルが変わっていないことに気づくなんて、この長い間なにしてたの?」とたしなめた◆今や、F男は、発達障がい者の自立支援のための事業所の社長だ。あの赤いランドセルの男がだ。私が議員になったこと以上に、ある意味、凄いことだ。中古の住宅を買った翌年に地震に遭遇し、家の真下に活断層が走っていて、真ん中から上下に亀裂が入った家で暮らし、子どもたちも自立し、孫もいる。そして今、K女は、富山の実家から猫8匹を連れて帰るとのこと。猫が大嫌いなF男は、一体どこで生活するのだろうか?「よういちが今度来た時、俺はベランダで生活しているかも?」と言う、F男が心配でならない。一先ず、スマホスピーカーと一緒に、議員として使っていた、高級なカバンを一緒に、送るつもりだ。それにしても、今さらながら、「なんて夫婦だ!」と連れ合いと爆笑しながら、猫八匹と猫大好き女と猫大嫌いな男の、これからの行く末を心配する、今日この頃だ。

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