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2024年1月

徒然日記 Vol 703

誰のために何のために

 昨日1月27日の土曜日の夕方は、西県議関連と校区防犯協会の新年会が地元であり、両方掛け持ちで参加してきた。いずれの場でも、幾人かの人たちから、3年後の市議会議員選挙に立候補するのか、と問われた。結論は、出馬しない、これまで人から頼まれての人生だったこと、これからの残り10年間ほどは自分の人生を歩みたいことなど、を伝えた◆それでも「次も出なんタイ」と言われる人がいた。これまで、人のため世のために、と精一杯頑張ってきたつもりだ。次期選挙時は73歳になる。議員は高額な報酬は貰えるものの、体力と気力が必要で、何よりもそれを支える高い志や情熱が無ければならない。熊本市議会議員としての3期12年間は、特に教育や環境や福祉の施策の充実に向けて、様々な質問や政策提言等を行ってきた◆確かに、まだまだ、やり残した事がある。しかし、次回の選挙で、例え当選したとしても、77歳まで情熱を持ち続けて頑張れる自信が無い。「次も出なんタイ」と言われる人たちには、私の長年の夢である晴耕雨木の生き方を伝えても、その思いは届かないようだ◆本当に、熊本市政に、そして、この地元に議員が必要と思うのであれば、私以外の若い人を探して、当選に向けて取り組むべきではなかろうか。私も、この人はと思う人に声をかけているが、鼻から受け付けてはくれない。4月には、最後の後援会総会を開き、私の進退をきちんと表明することにしている。今は、高森での暮らしをする自分の姿を思い描きながら、少しずつ、そのための準備を進めている。自分のための、人生を歩むために。

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徒然日記 Vol 702

くまモンにどつかれて

 23日(火)の休みの日、雪がちらつく午前中に自治労熊本県本部に行き、自治研センターの監査に行ってきた。監査が終わったその足で、古巣の県職労に遅まきながら年始の挨拶に。途中の県庁入り口のイチョウ並木の隅っこで、くまモンが踊りの練習をしていた。記念撮影を頼んだところ、事務局の方が快く、私の携帯で、くまモンとのツーショットを撮影してくれた。くまモンと肩を組んでの撮影が終わり、私が「中身は男?女?」と聞くと、事務局の女性がすかさず「中身は誰も入っていません。くまモンです」と言われ、くまモンからは、軽くお腹をどつかれた。私は「なるほど、そうでしたね」と笑って返した。早速、組合の書記局の女性たちに画像を見せると「くまモンというより、福永さんの姿が面白い」と笑われた。画像の中の私の髪は、風で立ち上がり、遠目にはモヒカン刈りのようだ。自分でも笑ってしまった。年初め早々に、書記局の皆に笑いを届けることができた。ちなみに、連れ合いに画像を送ったらば「どっちがくまモン?」とあったので、友人たちに「クイズ・どっちがくまモン?」と聞いたらば、「どっちもくまモン?」「右側がくまモンのお兄さん」などの返事が返ってきた。

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徒然日記 Vol 701

子どもたちのために

 本日1月21日(日)の午前中に、武蔵校区の青少年育成協議会(青少協)主催でのプレイパークが、武蔵小学校で行われた。私も、手伝いで参加した。親子連れの100人近くの人が訪れて賑わった。私たちは、朝から焚火を燃やし、さついもを焼き、参加者は、炭火で竹の先に材料を巻き付けて、パンやマシュマロを焼いて、食べた◆体育館では、ビニール凧や牛乳パックとんぼ(牛乳パックとストローの竹トンボ)づくりなどをして、その後、親子で校庭で遊んだ。親子で触れ合っての、遊びと食べ物づくりの中、子どもたちの溢れる笑顔に、癒されたひとときだった◆青少協のプレイパークは年二回で、今度の夏には、ペットボトルのロケットを作って飛ばしたり、竹馬を作ったりする。昨年は、200人近くの参加があった。校庭で、幼い子ども2人と、楽しそうに凧を飛ばして遊んでいたお父さんが「正月のどんどやにも来ました。3年前に引っ越してきたんですが、この校区は子どもたちのための色んな行事があり、楽しくて、住みやすく、いい所ですね」と話をされた◆傍らでは、女の子が、牛乳パックとんぼを小さな手で上手に飛ばし、お兄ちゃんは、走り回って、凧を飛ばしていた。そんな姿を見ながら、この先この校区にいる限り、子どもたちのためにも、色んな活動のお手伝いをしなければと、改めて思ったものだ。

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徒然日記 Vol 700

誰じゃったかい?

 1月10日の午後に、訃報が入った。元市議会議員の上村さんが亡くなった。上村さんは、五期20年間の長きに渡り地域に根差しての議員活動をされてきた方だ。上村さんの退任にあたり、その後継として私が引き継ぎ、議員となった。14年前に、上村さんの地盤を引き継ぐために、この地に移り住み、上村さんと共に一年以上をかけて、地域の方々の家々に挨拶に伺った◆上村さんと一緒に、毎日のように、100軒ほどの家を回り、上村さんが「私の後継の福永さんです。よろしく」と紹介していただいた。おかげで、12年前に、初当選を勝ち取ることができた。挨拶回りで、思い出すことがある。夕方になり、上村さんも少し疲れが見え始めた頃、挨拶に伺った支持者の方の玄関で、上村さんがいつものように「私の後継の」の後、言葉に詰まり「誰じゃったかい?」と言われた◆玄関の方も私も、ひっくり返りそうになりながらも、私は、すかさず「福永といいます。よろしくお願いします」と挨拶をした。そんなことが、一度ならず幾度かあり、上村さんは大丈夫かい?と思ったものだ。しかし、今にして思えば、「誰じゃったかい?」は、私の名前を覚えてもらうための、上村さんの作戦だったような気がする。そして、7年前の地震の時には、安否確認で上村さん宅を伺った時の、上村さんの第一声は「名前を売るチャンスばい。頑張って」と言われた◆私は「名前を売るためではなくて、困った人を助けるために頑張ります」という言葉を飲みこみ、「はい」と返事した。地震後の一カ月は、参院選もあり、地域のことや議会対策等含めて、我が人生で一番多忙を極めた。頑張ったおかげで、上村さんの言われたように、きっと、私の名前も売れたのかもしれない。葬儀の日に久しぶりに再会した棺桶の中の、上村さんの、あの大きな目は二度と開かない。昨年、「また飲みましょうね」の約束も叶わず、逝ってしまわれた。手を合わせて「長い間、お疲れさまでした」と、「落選して、すみません」の言葉をかけて、お別れをしてきた。

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徒然日記 Vol 699

言葉の重さを知る

 今回の能登半島地震の報道を目の当たりにして、言葉の大切さを実感した。地震が発生した時の、ある放送局の女性アナウンサーの呼びかける声が今でも耳に残っている。「命を守るために逃げてください」「津波の危険があります。海沿いの方たちは高台に逃げてください」などのアナウンス。その声には「助かって」という必死な思いがあふれていた。これまでの地震時の報道でも、地震の状況や避難等の報道があっていたものの、何かしら他人事のような雰囲気が拭えなかった。今回は、地震後の各局のアナウンサーの言葉には、以前よりも説得力があり、力があるように思う。「東日本大震災でも、家が気になって見に行き、亡くなった方がいます。揺れが落ち着くまでは避難先から動かないでください」「熊本地震は、余震の後に本震がありました。気を抜かずに用心してください」「孤立している地域の方々は、援助が来るまでの間、隣近所の方々で、助け合ってください」等々。地震発生時の、あのアナウンサーの必死な声を聞いて、ただ事ではないと感じて、すぐに逃げて助かった方々もいると思う。多くの報道に関わる人たちの多くが、近年の東日本や熊本などの震災の現場に行き、被災の現場を見て、被災した人たちの声を聞いたりしたことと思う。その、経験に基づいて、相手を思って必死に訴える、その言葉は、人を動かし、命を助けることができるのだ。今回の地震報道を聞きながら、言葉の重さを改めて知る日々だ。

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徒然日記 Vol 698

災禍を乗り越えて

 1月7日(日)は校区のどんどやが5年ぶりに、武蔵小学校の運動場で実施された。久しぶりということもあり、例年に比べ多くの家族連れ等が参加。私たち役員は、早朝から、竹運びや、豚汁つくりなどに汗した。10時過ぎにやぐらに点火。しばらくして、竹のはぜる音と共に、炎は天高く燃え上がった。燃える炎を眺めながら、能登半島の大学時代の友人に電話した。やっと繋がった。元気だった。地震当日は、能登の自宅で妻と姉で被災し、裏庭の山に避難し、避難所で暮らしていた、とのこと。彼の自宅近隣の八割は倒壊したらしい。今は、大阪にいるとのことで、元気な声だった。生きていて良かった。燃え上がる炎を見ながら、友人だけでなく、被災した多くの人たちが、この災禍を元気に乗り越えてほしい、と願った。

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徒然日記 Vol 697

命の大切さを思う

 お正月の能登半島を中心とした地震から三日。少しずつ被害の状況等がわかってきた。多くの建物が倒壊し、輪島の市場では火事が発生。今でも瓦礫の下でもがいている人がいるかと思うと胸が痛くなる。あの熊本地震からやがて八年。余震から本震の夜、そして度重なる余震の日々。今でも、あの時の恐怖が時折蘇る◆私の大学時代の友人のKの里が、能登半島の先端の民宿で、今回の地震の震源地に位置する。大学時代の夏に友人のKと彼女、私の今の連れ合いの四人で宿泊したことがある。夕食には、新鮮な刺身が並び、サザエが丼ぶりで出てきた。綺麗な海で泳ぎ、自転車で半島を巡った◆Kの安否が気になり、携帯に連絡したものの、全く違う人に繋がった。彼の会社や、民宿に連絡するも、繋がらない。彼や民宿でお世話になったお母さんの無事を祈るばかりだ。そして、昨日の二日の夕方には、羽田空港で航空機事故があった◆滑走路で待機していた、被災地に物資を運ぶための自衛隊の飛行機と、着陸する航空機が滑走路で衝突し、自衛隊機も航空機も炎上した。自衛隊機の四人の乗員が亡くなり、航空機の乗客300人近くは、無事避難。自衛隊機も航空機も、燃え尽きてしまった。新しい年が、災害と事故で始まった。多くの犠牲者や被災者に心を寄せながら、命の大切さを思う、年始だ。

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徒然日記 Vol 696

お正月に巨大地震

 新たな年が始まった。今年はどんな年になるんだろう。ようやくコロナ禍から脱して、少しずつであるが普通の暮らしが戻ってきた。毎年、年が明けた0時過ぎには家族で、近くの神社に初詣に行っている。今年は、孫のR斗と連れ合いの三人だけで(N美と息子は別行動で母は留守番)、近くの代継宮と、以前住んでいた合志市の黒石神社の二ヵ所に行ってきた。代継宮は、多少の人出があったものの、黒石神社は、私たち以外に二人だけだった。それでも、しっかりとお参りをしてきた。「良い年であるように」と祈ったばかりの、今日の元日の夕方、石川県を中心とした地震の速報が入った。最大震度7という巨大地震だ。大津波も発生した模様だ。テレビでは「日本海側の人たちは今すぐ逃げてください」とアナウンサーが繰り返している。災害はいつどこで起きるかわからないものだ。しかし、よりによってお正月とは、なんということだ。現場の家屋の倒壊や火災等の被災の様子を見ながら、あの熊本地震を思い出して背中が寒くなる。未だ倒壊した家屋の下で救助を待っている人たちがいる。犠牲者がいないことを祈るばかりだ。

↓黒石神社

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