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2023年4月

徒然日記 Vol 654

K女史のこと

 この熊本で、私に元気をくれる三人の女性がいる。言わずもながの連れ合い、あさ子ばば。そして、K女史だ。K女史とは、10年ほど前に村上市議に紹介された方だ。車いすでの暮らしを永くされている。県や市の福祉に関わる委員など市民の代表としても、活躍されてきた。地域の中で、住み慣れた家で、いつまでも暮らせることを願って、自分自身だけでなく、障がい者や、高齢者のために活動をされている方だ。私は、彼女に対する、市としての福祉サービスの在りようが、私たちの将来の暮らしを左右する、と思っている◆そういった意味で、K女史には「私にとってのリトマス試験紙」と言ってきた。おつき合いをさせていただいたこの間、市の福祉サービスの脆弱さや、縦割り行政の弊害、働くヘルパーの不足や、その資質のあり方など、多くの課題等が明らかになった。その都度、いくつかの指摘や助言をもらいながら、改善に向けて取り組んできた。しかし、私の思うところの福祉社会には程遠く、私が生きている間に実現は不可能だと思っている◆元気だった高齢者が、認知症や障がい者となったその時に「なんだこのサービスは」と、憤っても、手遅れであり、それが日本の福祉なのだ。市議として、もう一期務めて、やり残したことに取り組むつもりだった。だが、それも叶わない。K女史は、後援会のメンバーだが、コロナの感染などの危惧もあり、役員会や総会などにはなかなか参加ができない身だ◆しかし、家に出入りされるヘルパーさんなどに、私の紹介をして、支持者拡大に取り組んでいただいた。ある意味、彼女の家が、私の宣伝の拠点にもなっているのだ。選挙前には、後援会に寄付もいただいた。落選した後も、選挙情勢や、後援会組織の今後や、私の身の振り方等含めて、俯瞰的な視点からの貴重な助言や励ましをもらっている。これからも、私を支えていただく大切な方だ。議員の身分は無くしたが、この先、自分に出来ることとして、K女史の暮らしを支える取り組みを、継続していかなければと思っている。

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徒然日記 Vol 653

天からのもらい水を授かって

 この春に知り合った、88歳のあさ子さんには、選挙前から、そして落選してからも、ずっと元気をもらっている。選挙事務所に、リュックを背負い、バス二本を乗り継いで、タケノコと紹介者カードと笑顔を届けていただいた。いつだったか、あさ子さんに、元気の源は何ですか?と聞けば、「天からのもらい水」との返事。あさ子さんから、天からのもらい水を授かり、その水は、足元から、そして今は全身を流れているような気がする。あさ子さんの元気を、皆に分けてあげようと思い、歌を作った。まだメロディが未完成。いくつか歌ってみるが、軍歌のような、童謡のような雰囲気になり、納得できない。いつか、完成したら、あさ子さんの前で、ギターを抱えて、歌いたいと思っている。

 あさ子ばばの歌

1 リュックに夢を詰め込んで

  笑顔と一緒に運ぶ人

  あさ子ばばは今日も行く

  みんなのためにたった一人

2 あさ子ばばの力の元は

  天から授かるもらい水

  僕にも分けてくださいな

  天から授かるもらい水

3 天から授かるもらい水

  みんなに分けてあげましょう

  夢と笑顔を運びましょう

  一緒にみんなに届けましょう

4 あさ子ばばの力の元は

  天から授かるもらい水 

  誰でももらえるもらい水

  誰でももらえるもらい水

 

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徒然日記 Vol 652

猫八匹と猫大好き女と猫大嫌いな男の行く末は

 名古屋の大学時代に知り合った友人で、今は神戸に住む、F男とK女夫婦がいる。卒業して、45年を過ぎたが、今も、時々会ったりもしている。私の結婚披露宴にも来てくれて、新婚旅行にも二人一緒に同行し、福岡の居酒屋で4人で祝盃を上げた。阪神淡路大震災の時には、翌年にお見舞いも兼ねて、二人の自宅を訪ねた。北海道の一人旅の時も、立ち寄って泊めてもらった。そして、熊本地震の際には、すぐに二人で駆けつけて、数日間、片づけ等を手伝ってくれた。先日、K女に、私の自作のスマホスピーカーを送るからと、連絡して話をした。その時に、F男の話になった。神戸のある駅で、白髪の老人が、紙袋を持って、ぼーっと立っていた。浮浪者かな?と思ってよく見たらば、わが連れ合いだった、と言う。笑ってしまった◆「それが彼のライフスタイルじゃん」と言う話から、大学一年生の時の話をした。(ちなみにK女は一年下)。彼は大学に来る時に、いつも、ぼさぼさの長髪で、夏も冬も、真っ黒なロングコートを羽織り、その背中には真っ赤なランドセルをしょって歩いていた。異様なその姿に、最初、彼のことを知らない私たちは「絶対近づかんとこ」と決めていた。就職した会社の初日の朝礼の雰囲気が嫌で「こりゃ続かん」と、一日で退社した男だ。住まいが無く、即席ラーメンを持って、クラスの知り合いの所を泊まり歩いた男だ。バイトで、朝から何も連絡が無いまま「おはようございます」と、夕方やって来る男だ。なのに、だからか、今に至り、一生の友となった。なってしまった◆赤いランドセルの話をして「今も変わらないF男じゃない。それが彼でしょう。ある意味、素晴らしいこと」と言うと、K女が「うそ~。赤いランドセルの話は聞いたことがあるけど、それって彼が芝居をしていた時の、役柄の話じゃ~?」と言う。今頃になって、それが本当であり、その姿で一年間ほど大学に通っていたことを、45年を過ぎて初めて知ったのだ。「ウソ~知らんかった。だまされた」と言うK女。腹を抱えて、笑ってしまった。何も変わらず、あのまんまで生きているF男と暮らすK女に、私は「今頃になって彼のライフスタイルが変わっていないことに気づくなんて、この長い間なにしてたの?」とたしなめた◆今や、F男は、発達障がい者の自立支援のための事業所の社長だ。あの赤いランドセルの男がだ。私が議員になったこと以上に、ある意味、凄いことだ。中古の住宅を買った翌年に地震に遭遇し、家の真下に活断層が走っていて、真ん中から上下に亀裂が入った家で暮らし、子どもたちも自立し、孫もいる。そして今、K女は、富山の実家から猫8匹を連れて帰るとのこと。猫が大嫌いなF男は、一体どこで生活するのだろうか?「よういちが今度来た時、俺はベランダで生活しているかも?」と言う、F男が心配でならない。一先ず、スマホスピーカーと一緒に、議員として使っていた、高級なカバンを一緒に、送るつもりだ。それにしても、今さらながら、「なんて夫婦だ!」と連れ合いと爆笑しながら、猫八匹と猫大好き女と猫大嫌いな男の、これからの行く末を心配する、今日この頃だ。

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徒然日記 Vol 651

高森での暮らしを夢見つつ

 昨日の夕方は、選挙の反省と慰労と、今後の課題等について話し合うために、後援会の役員会を開いた。冒頭のあいさつで、4年後の選挙については、「地元出身の若手の擁立に取り組む」「新人の擁立ができなければ、私が再度立候補する」ことを伝えた。そして、私の以下の三つの夢を伝えた◆①地元で築いた絆や地盤を壊さない②障害児の療育にもう一度取り組む③父の故郷の高森での晴耕木読の暮らし。②は叶ったものの、①の夢は、これからだ。①が叶わなければ、③も無い。今回の役員会では、15名の役員の中で、私よりも高齢の方々の主な意見は「73歳なんて若い、新たに二期8年間、81歳まで議員として働き、それから高森に行けばいい」「金が無いなら皆で出し合う」「俺たちも、これまで以上に票の拡充に取り組む」というものだった◆私は、新人が擁立できなければ「再度私が」と伝えたものの、4年後の73歳の私が再挑戦しても、必ず勝てるとは思っていない。二連敗して、高齢の方々の夢が叶わなかったら、それこそ、この地域の絆は壊れ、選挙後には草刈り場と化してしまうことだろう。今回の選挙では、若い人たちが若い候補者に投票し、議長や議長経験者などの古参議員が落選した◆私の選挙区北区では、告示の数日前に立候補した新人のタレント候補にも負け、私の3期12年の実績も吹き飛んだ。時代は、新しい風を求めているのだ。今後、二年ほどかけて、次世代の候補を選出し、次に繋ぎ、選挙に汗したいと思っている。それが叶わなければ、負けを覚悟でチャレンジするしかないのだろうか。いずれにしても、私は、高森の暮らしを夢見つつ、これからも、天からのもらい水を授かり、種をまく人として頑張り続けるしかないようだ。

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徒然日記 Vol 650

少しずつ世界を広げて

 孫のR男は、今年、高校を卒業し、4月から、下通にあるケーキ屋さんの地下のカフェで働き始めた。何故か、店内も厨房もすべてが女性の中に、たった一人の男性である、孫が。いずれは、厨房に入るが、経験のために、店内でウエイターの仕事やレジ打ちなどをしている。高校時代の二年間、学校には内緒で、近くの中華の店で働いていたので、経験もあり重宝されているようだ◆ただし、コーヒーやパフェなどを運ぶ仕事は、ラーメンとは違い、お客さんも女性が多く、苦労しているようだ。ある日、コーヒ―をこぼさないようにと、手を震わせながらカチャカチャと音を鳴らして、テーブルの女性のお客さんに渡そうとしたところ、女性が「大丈夫よ」と優しく言って、手を差し伸べてくださった、とか。ある日は、女性スタッフに「私はいくつに見える?」と聞かれて「30~35歳かな?」と答えて「え~私27歳よ」と言われてしまった、とのこと。いつかは、片づけが納得できないからと、一人でやり直して、二時間ほど遅く帰って来た◆先日は、定期券を失くしたと言って、パニックになり、夜中に部屋中をひっかきまわして見つからず「あ~、お金がない。仕事に行けない。休まなきゃ」と言う始末。まだまだ子どものR男。それでも、職場では皆から可愛がられているようで「楽しい」と言っている。休日は、スマホで、ほとんどゲームをしたり、唄を歌ったりして過ごしている。この先、少しずつ世界を広げて、一歩ずつ大人の階段を昇っていくのだろう。にしても、いつか階段から落ちるのではないかと、心配でならない。

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徒然日記 Vol 649

「もうあきらめたらどうよ」

 昨日(4月18日)は、午前中から組合の仲間と、選挙事務所の片付けだった。ポスターや為書や推薦状などを、心の中で「すみません。すみません」と呟きながら、ひとつひとつ剥がしていった。そして、入り口に貼ってある私のポスターを見ながら、能天気に笑っている自分の顔が、嫌になってしまったものだ◆昼過ぎには、概ね片づけは終わった。車に詰め込んだ荷物を自宅に降ろすのに、ちょうど仕事が休みの孫がいたので「俺、倒れそう、手伝って」と頼むと「うん分かった、倒れたら言ってね」と笑いながら言う。「こるら~」と軽く脅すと、すぐに手伝ってくれた。片付けが終わったら、すっかり疲れてしまった。まだまだ、心も身体も、疲れが取れていないのがわかった◆15時過ぎからは、自転車で二人での防犯パトロール日で、小学校の校門に集合だったのに、忘れていて、自宅まで迎えに来ていただいて、「あっそうだった」と思い出す始末だ。熟睡はしているものの、何故か朝陽と共に目が覚めてしまう。そして、次にやるべきことを、色々と考えている。きっと、しっかり寝ているつもりでも、まだまだ睡眠も足りていないのだろう◆事務所に置いてあった、捨ててもいい選挙用の名刺や葉書などの幾枚かを持って帰る自分がいた。4年後は、出馬しないつもりなのに、まだあきらめたくはない、もう一人の自分がいるようだ。もう一人の自分は「もうあきらめたらどうよ?」と言っているのに。人から色々な役割を頼まれて、断ることができずにその場その場で頑張ってきた人生だった。今度こそ、自分のための人生を歩みたい。でも、頼まれたらば、「また頑張ってしまうのかい?」俺。

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徒然日記 Vol 648

もらい水 天から受けて 歩む春

 昨日は、熊本地震の本震があった日で、あれから7年が過ぎた。改めて、あの時の記憶を呼び起こして、災害への備えを忘れないようにしなければと、7年前を振り返った。そして、翌日の15日となった夜中の0時過ぎに地震があった。7年前の本震は14日の夜中の1時30分だった。一日だけずれてはいたものの、きっと、神様が「また大きな地震が来るぞ」と、教えてくれたような気がした◆私自身は、神様なんていないんだと思っている。しかし、70年近く生きてきて思うのは、人生の節目節目に際して、何かしらの大きな力が働いているような気がしてならない。私ならずも、誰しもの運命をつかさどる大きな力が、働いているのでは、と思う。それが、もしかして神の仕業なのかもしれない◆今回の選挙でも、多くの方から力をもらった。そして、「落選」との天命が下った。その中で、ほんの数か月前に知り合った方で、80代のあさ子さんという方がいらっしゃる。熱い支持をいただいた方たちの中では、最高齢となる。事務所にも、遠い所から竹の子を担いで、バスを乗り継いで来られ、多くの方の紹介をいただいた◆投票日には、一人では投票所に行けない紹介者の方の家に行き、投票所まで付き添われた。ある時に、「あさ子さんのその力の源は何ですか?」と尋ねたところ「天からのもらい水」との返事。選挙が始まった時にも「あなたの足元は天からのもらい水にあふれている」という言葉をいただき元気をもらった。そして、新たな道に向けて、歩き始めた今、これこそが、きっと運命だったのだと思う。そして、出来上がった俳句が表題の句だ。今や、もらい水は、足元だけでなく、体中に巡っているような気がする。

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徒然日記 Vol 648

畑を耕し種をまき

 多くの方から、「今は、心と身体を休ませて」との言葉をいただいた。しばらく、悶々とした日々を送っていたが、今は、この地元から私の後を引く次ぐ人がいないのか、そのために、私に何ができるのだろうかと、色々と考えて、早朝から目覚めるようになった◆4月中に、今後の暮らしや、地域のこと等含めて、先行きの方向性を決めて、しっかり休みたいと思っている◆5月の連休は、高森に引きこもり、畑を耕したり、片づけや、読書等に明け暮れての生活をしようと思っている。高森の荒れた畑を耕し、たい肥を入れて、土をつくり、種をまき、野菜を育てるつもりだ◆議員として、地域のためにも頑張ってきた。より良きまちづくりのためにと種をまいたものの、花や実がなる前に、私の役割は終わってしまったような気分だ。せっかく繋がった地域の絆を、途絶えることがないように、花や実がなる前に枯らしてしまわないように、暫くは、汗しよう。

↓ 雲間草

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徒然日記 Vol 647

熊本、終わりよ

 4月9日に家族で投票をすませ、18歳になる孫に「もちろん福永洋一って書いたよね?」と聞くと「ごめん瀬尾って書いた」と言って、私を茶化した。瀬尾とは、熊本城の観光のための戦国武将隊の加藤清正役を務め、テレビやラジオで活躍した32歳の若者だ。今回、告示の10日ほど前に立候補を表明し、選挙公報には、政策は何も記載せずに「清く正しく」のスローガンと、清正のひげ面の写真。いわゆるタレントの候補だ◆そして、開票の結果、私の得票の倍近くを取り9人定数の3位で当選し、私は後ろから3番目の11位。3期12年の実績のある69歳の爺さんが、まさしく、加藤清正にバッサリと切られてしまった。落選後に、孫から連れ合いに、こんなメールが届いた。「爺ちゃんが落選したのは、今の時代の訳も分からず見た目だけで投票した人たちのせい。爺ちゃんが負けたわけではない。熊本、終わりよ」。愚民と言う言葉さえも知らない孫が、「熊本、終わりよ」と嘆いていた◆来週末には、後援会の役員会を開く。この地域に落下傘候補として、移り住み15年、そして、議員として3期12年、自分のスタイルで精一杯、地域に溶け込み地域のためにも、精一杯、取り組んできたつもりだ。しかし、何ら実績の無い、ぽっと出のタレント候補に敗れてしまった。役員会では、私自身は、しばらくこの地域での活動は継続するものの、いずれは高森に行き、次期選挙には、出馬しないことを表明することにしている◆今後、夏の総会で、後援会を解散してしまえば、せっかくの絆が薄れ、地盤が壊れ、4年後の選挙では、この校区含め、近隣は草刈り場と化してしまう。来週の役員会での話し合いで、そうならないための方策を皆で議論したいと思っている。地域の未来に向けての、前向きな議論を期待している。政治を諦めずに「熊本、終わりよ」とならないために。

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徒然日記 Vol 646

多くの人に助けられて

 落選の翌日の月曜日、眠れないまま朝を迎え、市役所に集合した挨拶回りの当選の組織内議員と組合役員に挨拶の後、落選した者として、一人で昼まで組合関連の団体に足を運び、挨拶回りをした。午前中、駐車場に車を停めて、ご近所で支持していただいた方にお詫びとお礼の電話をした。すると、その方がいきなり「今朝、家族で話し合って、福永さんを私の会社で働いてもらうことにしました」と言われた。会社とは、発達障害児の放課後デイだ。いつか、冗談で「落選したら経験者の僕を雇ってください」の冗談を覚えていらっしゃっての言葉だ◆私は「えっ。僕は今年で70歳ですよ」と言うと、「わが社は高齢者に優しい職場なんですよ。元気であれば75歳まで働けます。ちなみに今回欠員があり募集かけていたけど、福永さんの面接はすでに終わっているので、これまでの恩返しの意味でも、雇うことにします」と言われた。今年度は前年度の収入に対しての税金納入をしなければならない。蓄えも少なく、年金だけでは、暮らしが成り立たない◆落ち着いたらば「仕事を探さなければ」と思っていた矢先の、落選の翌日の午前中に、その言葉をいただいた。私は、泣いていた。その温かさと優しさに触れ、車中で号泣してしまった。以前、頭の上かどこかにある県職員労働組合書記長という肩書が無くなった時に、手のひらを返すように態度を変えた人たちを数多く見てきた。反面、今でも「ふくちゃん」とか「しょきちょう」とか呼んでくれる人がいる◆今回、市議会議員という肩書を無くした。しかし、捨てる神あれば、拾う神あり。人間万事塞翁が馬。私の人生は、いつも人に重責を頼まれ、その仕事を引き受け、精一杯頑張ってきた。そして、何かあるたびにいつも、多くの人に助けられてきた。今回も数えきれない方々から、「なぜ?信じられません」「身体と心を休ませ再起を願います」「負けても3期12年の実績は消えない」などの励ましの電話やメールをもらった。私の最高の財産は、それら多くの方々に出会ったことだ。落選の翌日の、18歳の孫からのメールには「12年間お疲れさま。爺ちゃんの高森での暮らしの夢が4年間早くなって良かったね」と。天命は、孫の言葉通り「もうよかバイ」と言っているのだろう。顔を上げて、前に進もう。

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徒然日記 Vol 645

眠れぬ夜を過ごして/悪夢の落選

 これまで長く生きて来て、様々な挑戦をしてきた。思うようにいった時もあれば、何をしても上手くいかない時もあった。挑戦のたびに、いつも最悪の結末を想定してきた。最悪の結果であっても、また立ち上がって、歩いて来た。今回の4期目挑戦の熊本市議会議員選挙は、その最悪の結末だった。私の選挙区の北区は9名定数に13名の立候補で、現職は私を入れて8名。今回、現職の7名と新人の2名(一名は勇退した議員の後継)が当選し、私は、2494票で11番目で落選した◆4年前の選挙では、3776票の負託を得て10人中5番目で当選した。今回の選挙では、前回から1300票近く少なくなってしまった。夜中の0時過ぎ、待機中の車の中で、落選の報を聞いた。多くの支持者の方々の支援を受けての落選だ。申し訳ない気持ちでいっぱいだ。なぜ、こんなにも票を落としたのかは、今は、冷静には分析できない。会派の市民連合は8名。私の落選で、7名になってしまった◆団長に、「すまない」と電話をした。「この4年間、何しよったんね?議会だよりの手配りをせんかったけんじゃ?」。後援会長からは「立憲に入っておけばよかったかな」などと言われた。落選の一番の原因は、「絶対負けない」という自信があったからだと思っている。選挙戦の最中、公園で出会った、新人候補をたしなめたりもしたが、その候補が4600票以上を取り、3番目で当選した◆私自身の慢心のせいでの敗北だ。3期12年、豪雨災害や熊本地震の対応や、地元での自治会活動等、精一杯頑張ってきた。議会だよりも手配りではないが、議会ごとに質問・提言や活動等を2万世帯以上に配布し、知らせてきた。その私が、勇退する議員の後継の新人と、観光のための市の武将隊として加藤清正の役で、ラジオやテレビで顔を売ってきた新人に、はじき出されてしまった。2時過ぎに布団に入ったものの、これからすべきことを整理していたら、夜が明けた。今は、まだ悪夢を見ている最中で、実感がわかないが、しっかりと現実を受け止めて、いつのものように、また立ち上がり、歩き出さなければならない。まずは、応援していただいた方々への、お詫びとお礼の行脚をはじめよう。

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徒然日記 Vol 644

闘いすんで夜が明けて

 選挙は昨日、終了。振り返れば、この9日間、多くの方々の声援を受けた。玄関先や公園、家の中などから手を振っていただいた。大通りは、マイク担当が声を出し、住宅街は、ゆっくり静かに選挙カーを走らせ、私の声を届けた。北区の市営・県営住宅の全てで演説もした。いくつもの交差点でも演説した。選挙カーは、地元を中心として、隅から隅まで走リ尽くした◆マイク担当は、地元の一人を除き、全員が組合関係の素人集団ローテーションを組んだ。福永が途中、福山になったり、言葉に詰まりながらも、熱く淡々と、声を届けてくれた。間違いがあっても、皆でカバーし、笑い声が絶えない選挙カーの中だった。マイク担当の女性たちのそれぞれの個性を発揮してくれ、プロの喋りよりも、訴える力を感じた。私自身も「きちんとした議員を・・」を「チキンとした」と言ったり、「離合のご協力」が言えずに「ごごごっ」と言って笑われた◆最後の夕方の、私の訴えは、地元の武蔵校区を歩いて、私の声を届けた。歩きながら、声を枯らして何度も「子供たちの未来のため、未来の子どもたちのため、そして私たちの暮らしを守るために、貴重な一票を無駄にせず、大人の責任・義務・権利として投票所に足を運び、投票用紙には、福永とお書きください」と訴えた。夕方の一時間ほどの間に、幾人かの人たちが手を振ったり、外に出てくれて、握手もした◆校区の全ての人が投票に行き、福永と書いてくれるならば楽勝なのだが、そうはいかないのが選挙。マイク納めの挨拶では、やり切った安堵感と共に、後援会の役員やスタッフのご苦労に頭が下がり、そして、応援してくださった方々の顔が頭をよぎり、挨拶の後半は涙が止まらず、何回も言葉に詰まった。皆の支えがあってこその福永、だということを改めて心に刻んだ選挙だった。今日は、10時ごろまで眠るつもりだったが、選挙モードが抜けずに、朝の光に目が覚め、早朝から起きてしまった。今から、知り合いにお礼や選挙のお願いをするつもりだ。選挙の結果が判明するのは、夜中の0時前後。明日は、早朝から市役所に集合し、挨拶回りだ。ゆっくりするのは、まだまだ先。がんばるぞ~。

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徒然日記 Vol 643

駆け抜けて9日間/選挙戦最終日

 選挙戦も、今日で最終日。昨夜は、22時に布団に入り爆睡し、久しぶりに8時間ほど眠ることができた。あの熊本地震から、やがて7年。公園にテントを張っての一カ月間は、毎日、近隣の避難所等を駆け回り、地域の実態を見て、避難者の声を聞き、市に繋ぎ、改善のために取り組んだ◆当時は、7月の参院選挙の、あべ広美候補の選対の事務局長としても、活動していた。被災した後援会事務所や、あべ広美の法律事務所の引っ越しも手伝った。議会では、緊急の地震の対策会議も幾度となく開かれた◆地震の4月から7月の参院選まで、一日たりとも休むことなく、動き回っていた。我が人生で一番忙しい日々を過ごした。7年前の、あの時の忙しさを思えば、この9日間の闘いは、短いものだ。今回の私の選挙スタッフが「福永さん元気ですね~」と感心していた◆相当、疲れてはいるのだろうが、声もちゃんと生きているし、元気だ。マラソンで言えば、数キロ先に、多くの観客で埋め尽くされたスタジアムが見えてきた。沿道には私を支える人たちが沢山の声援を送ってくれている。輝くゴールテープ目指して、最後の一日、精一杯走り抜けよう。結果は後からついて来る。

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徒然日記 Vol 642

ありがとう、さようなら

 また、私の知り合いが続けて二人、亡くなってしまった。先週、私の組合時代にお世話になった80代の組合書記のHさんが亡くなった。選挙の日程上、通夜も葬儀も行くことが叶わなかった。そして、昨日は、私が県の職員組合の書記長時代の頃の20年以上前に知り合った、市職労のHさんが59歳の若さで亡くなってしまった。当時、書記長の私が教宣(教育宣伝:組合員に組合の活動等を知らせる情報紙を創ること)の神様と思うぐらいに尊敬していたAさんが、ある日「僕の後継だ、よろしく」と紹介されたのがHさんだった。ところが、Aさんの横に座るHさんは、テーブルによりかかるように肘をついて座り、そして「なんもわかりまっせんばってん適当に頑張ります」の挨拶◆そのふてぶてしく投げやりな態度と言葉に、私はつい腹を立ててしまった。「教宣のプロのAさんがあなたのことを『私の後継』と言ってらっしゃるのに、Aさんにも私に対しても、あまりにやる気のない失礼な態度では」と叱ってしまった。その後、私が12年前に議員になってからのことだ。彼は私に会うなり、その、叱られた時の話をした。「覚えてますか?福永さん。当時は、すごく頭にきて福永さんのことを、いつか見返してやるという思いだった。あれから教宣も頑張って、今は講師として教えたりもしているし、市職労の役職にもついている。今になって思うのは、あの時、福永さんに叱られなければ、今の僕は無かったと思っています、感謝してます」とまで言ってくれた◆彼は、音楽が好きで、作詞作曲もし、熊本市にもいくつかの楽曲を提供し、子どもバンドの育成にも努め、PTAの活動も頑張っていた。しかし、5年ほど前に癌を患い、入退院を繰り返し、一時期は髪も抜け落ちたものの、昨年末は「もう大丈夫です。完治しました」と嬉しそうに報告してくれて安心した。ところが、今年になり癌を再発しての突然の死だ。私の弟が3年前に癌で亡くなった。弟が生きている時の闘病の姿や生き様を、彼に伝え、幾度も励ましてきた。通夜の席には、多くの人たちが訪れ、弔問の車は斎場だけでは入ることができず、会場はごった返し、会場に入れずにいる人たちが受付前に数十人も並んでいた。香典返しも不足し、組合の仲間も手伝い、あわてて準備されていた◆闘病生活を支えるのは「家族だよ」と助言したのに、彼曰く「ケジメです」ということで、癌の発病の年に奥さんとは別れ、一人で暮らしていたようだ。親族の席には、彼の30歳前後の子どもたちだけが座っていた。彼らは、我が父親の死を悼み駆けつけてくれる人が、どれほど多くいるのかを知らなかったようだ。そして、彼らは、約300名ほどの弔問の人たちの姿を見て、皆から愛され、慕われていた父親がいたことを、今夜、初めて知ったことだろう。私は、あまりにも、早い彼の死に戸惑つつ、そして、子どもたちが父親のことをあまりにも知らないことに、なお一層、悲しくなってしまった。棺桶の中の彼の顔を見て別れた。「福永さん選挙の真っただ中なのに何でここにおると?なんばしよっとですか!選挙の方が大事でしょうもん」と言っているようだった。ありがとう、さようならHさん、あなたを忘れない。

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徒然日記 Vol 641

ラッキーDAY

 今朝は、7時40分から8時30分まで、一人で自宅近くのJR豊肥線の武蔵塚駅前で辻立ちをした。多くのスタッフを横に立たせて話すより、一人で頑張る姿の方がいい、という事務局の判断だ。朝の武蔵塚駅は、ほぼ10分おきに、上り下りの列車が行きかい、多くの人が乗り降りをする場所だ◆演説の最中、かかりつけの病院の先生が車から手を振ってもらったり、ささえりあ(地域包括支援センター)のセンター長から挨拶をしてもらったり、見知らぬ人が頭を下げたりと、早朝から多くの方々から元気をもらった◆一人の若者が恥ずかしそうに、私の前を通り過ぎ、手を振ってくれた。よく見ると、この春から、豊肥線で市内の職場に通う、私の孫だった。「早起きは三文の徳」と言われる通り、今日一日は、会いたいと思う全ての方々に出会うことができた◆選挙カーが着く頃に、ちょうど帰宅され自宅前にいた方が二人、庭先や自宅近くにいた方が三人、地域の集会所にいて私の声を聞いて出てきた方など。待ちかねていたかのように、次々に支持していただく方たちに出会うことができた一日だった。一日の遊説が終わり、スタッフの一人から「今日はあまりにもラッキーだったから用心するように」と言われた。23時も過ぎた今、私は元気。明日もガンバロウ。

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徒然日記 Vol 656

感謝の日々

 2006年からブログを書き始めて、やがて17年を過ぎる。週に、一本以上を書くを、基本にして、思うことや考えていることなど、日記・呟き・ブログとして書き続けてきた。初回の、北海道の紀行文から始まり、800回ほど書き連ねてきた。読んでいただいている方は、毎日4~5名程度で推移している◆ところが、4月9日の市議選の投票日を境に、このブログを読んでくれる方の数が、毎日二ケタ台に上昇している。一体どこの誰が、読んでくれているのか皆目、検討もつかずに、何故に?と思っている◆読んでくれている方たちは、私の中では、親戚から、大学時代の仲間や、労組の役員時代や地域などで知り合った方などの、3~40名ほどであり。北海道や神戸や福岡など、そして熊本在住の方たちだと思っている。年に、数件コメントが来たりもして、あ~、あの方も読んでくれていたと、改めて感謝したりもしている◆読者の方の全てからコメントをいただければ、顔が見えると思うが、誰だかわからないほうが、いいとも思う。先日は、中学時代の同級生の女性から、7年前の熊本地震があった4月14日にメールが届いた。内容は、あれから7年の熊本地震の事で、私の落選を知らないままでのメールだった。ブログを読まれていようがいまいが、議員であろうがなかろうが、福永洋一に、きちんと繋がっている方たちが、全国にいらっしゃることに、感謝しなければと思う日々だ。

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徒然日記 Vol 640

朝から無駄骨?!

 選挙戦4日目の今日、6時30分に自宅を出発して市役所に行ってきた。市役所前で、自治労組織内の県議と市議候補の4名で、手ふり行動の予定だった。しかし、約束の7時30分になっても誰もやって来ない。なんと、予定変更で東区役所で県議と東区の市議候補のみの手ふり行動とのことで、私の出番は無し◆候補者は事務局の指示に沿って動くのだが、県議候補の事務局との連絡ミスのようだ。朝早くから迎えに来たスタッフと共に、ブツブツ言いながら帰って来た。「俺の睡眠時間を返してくれ~」と叫びたくもなるが、誰しも間違いはある。早朝のドライブだったっと納得するしかない◆市役所近くで、待機している時に、市の職員さんに声をかけられた「福永議員の従兄の奥さんと以前一緒の職場で、奥さんから福永さんを頼まれたんですよ、私は北区ですよ。応援してます」と言ってくれた。往復一時間は無駄骨にはならなかったようだ◆別れ際に、真顔で一言「朝まで飲んでたんですか?」と聞かれた。寝ぼけ眼の顔が、酔っぱらいに見えたのだろうか?選挙戦真っただ中で、街中で飲んだくれる候補者なんていないだろうに。笑いながら拳骨でタッチして、元気と清き一票をもらった。

◆4・2龍田公民館ホール演説会

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徒然日記 Vol 639

ゴールは間近

 市議選は、一昨日に告示され、今日は三日目。マラソンで言えば、ゴール間近の会場が見えてきたころだ。地元を中心に、各地域をくまなく走り、交差点や、市営住宅などで、演説を行っている。昨日は、花見客を狙って、夕方、八景水谷公園に行ってきた。選挙カーを降りるなり、近くの集団から「俺は福永を応援しとるもんね」の声◆選挙カーを見ての、反応だ。すかさず、「上手いですね~何人も候補が来て、そのたびに言ってるんでしょう?」と言って、挨拶した。「いやいやいや」と言いながら「ポカリスエットだけん」と、酒を進めてくれた。美味しかったのでお代わりした。聞けば、私の卒業した中学校の卒業生だった◆その後、数組の集団を回り、帰ろうかとすると、椅子に座るように促されて、話をした。福祉関連の事業所の方たちだった。ヘルパーの不足などの事業所の厳しい状況、サービスを受ける人の実態などを話した。そして、市としてやるべきことなどを話をした◆そこへ、新人の候補がやって来た。熊本市の観光の広報のために働いていた、戦国武将隊の加藤清正役の若者だ。選挙の看板等には、加藤清正を意識しての「清く正しく、いざ出陣」と書いてある。私が呼び止め、一緒に話をした。画像の真ん中が彼で、奥は「俺は福永」と言った人だ。にしても、なんと濃ゆい三人。疲れた身体に酒が染み入り、そして、愉快な人に出会った、ひと時だった。ゴールは間近。今日もガンバロ~。

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