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2022年2月

徒然日記 Vol 572

「あたが生むわけじゃ~なかろうもん」

 3月の一般質問で、熊本市職員の育児休業取得率が全国20の政令市中で最下位の状況から脱するための取り組みについて、質問する。そこで思い出したことがある。私の息子が生まれる40年前の話。当時、私は、知的障害児施設の県立肥後学園の指導員だった、明日には、子どもが生まれるとのことで、連れ合いの出産に立ち会うために、出産補助休暇を前日に申請した。ところが、園長に呼び出され「洋一ちゃん。あたが生むわけじゃなかろ~もん」と言われた。私は「出勤しても、無事に出産するまで心配で仕事にならないので、出産に立ち会いたいと思います。そのための休暇ですから」と伝えて、了解を得た◆出産の日は、朝から病院に行くも、夕方になりそうだということで、いったん帰宅して、午後から病院の待合室で待った。なかなか、生まれてこないので、筒井康隆のSFの短編集を読んで過ごした。動物の排せつ物を主食とする宇宙人が、地球人の排せつ物を食べるという内容の話を読んでいた。宇宙人が、それを皿に盛り、ナイフを入れての描写が、あまりにも生々しく気持ち悪いと思いながらも、本の中の世界に引き込まれていた◆その時、看護師さんが私の目の前に、生まれたばかりの赤ん坊を見せて「無事に生まれましたよ。元気な男の子です」と、言われた。突然、現実に引き戻されて、びっくりしたものの、連れ合いも元気と聞き、安堵した。そして、早速、園長に報告した。「良かった良かった」と喜んでいただいた。しかし、この話には、後日談がある。当時の出産補助休暇は、出産から10日以内に2日間の休暇となっていて、出産前には取得できないこととなっていた◆ということで、年休に振り替えた。あれから40年。現在の出産補助休暇は、出産の入院から40日以内に3日間の休暇が取れるようになっている。県も市も、多くの男性職員が、この休暇を取っているようだ。「あたが生むわけじゃなかろ~もん」の時代から、今では、育メンという言葉と共に、男性の育児参加は当たり前の時代となりつつある。あの日、私の目の前に差し出された赤ん坊は、今や、40歳のおっさんに、そして私は、もうすぐ70歳で、すっかり爺さんになってしまった。

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徒然日記 Vol 571

議会始まる

 2月16日、3月議会が始まった。会期は3月24日まで。補正と新年度の予算等の審議が始まる。そして、私は3月7日の午後に一般質問を行う。昨年から質問時間は、質問と答弁含めて往復二時間から一時間となり、年一回から二回登壇になった。今回の質問は、5本。内容は「政令市10年を迎えるにあたっての、総括と課題等」「小中学生を取り巻く環境について、部活動指針の徹底・教材の重さの改善・不登校児童への支援の在り方」「政令市の中で下位レベルにある施策。乳幼児の虫歯罹患率の改善・男性の育児参加促進」「市の職員の人材確保と育成」「身近な避難所の拡充」◆今回、特に力を入れて改善を求めることとして、小中学生の教科書等の教材の重さの改善をあげている。1980年代からの、ゆとり教育の見直しが2011年以降に行われ、その後、学力向上を名目にして、授業時間も増加。それに伴って、教科書等の教材が、より大きく見やすくなり、紙質もよくなり、ページ数も増加した。更には、問題集や資料等も増加した。その結果、教材全体の重さが二倍ほどとなった。実態としては、体重20キロ台(小1平均体重)の小学生が毎日4~6㌔のランドセルを背負い登校している。体重45キロ程度(注1平均体重)の中学生は、10キロ前後の教材を背に登校している。いずれも体重の1/4前後の重さだ◆全国規模で、子どもたちの腰痛が増加してると聞く。更には、重いランドセルを背負い、両手にも荷物を持ち、急な動きができず、車などからの危険回避ができない。現状としては、子どもたちの健康と安全を大きく損ねている。4年前には、文科省が置き勉の徹底のための通知を、全国の教育委員会に送付した。しかし、実態としては、置き勉が徹底できていない。今回の質問では、置き勉の徹底を求めるものだが、置き勉を徹底しても教材全体の重さの軽減には繋がらない。ランドセルもiPadも1キロ以上で、それだけで2キロ以上の重さとなる。ということで、教科書のデジタル化の推進も求めている◆ちなみに、ICT教育の先端を行く高森町は、二年前に教科書等の重さを軽減するために、置き勉の徹底に加えて、教科書全てをデジタル化した。熊本市もできないか相談したが、熊本市は高森町に比べて格段に児童生徒数が多いために、現在、導入されているデジタル教科書についても、画面が固まる等の不具合が出ていて、検証の段階だという。やり取りは始まったばかりで、教育委員会としては、具体的な改善策を示せない状況だ。改善のためには、置き勉の徹底に加えて、教科書や教材の見直し、ランドセルを廃止し、軽量のバッグに切り替える等が考えられるが、教育委員会として、どこまで踏み込むのかは定かではない。しかし、このままでは、子どもたちの健康と安全は守れない。本気を出して、早急に改善してもらいたいものだ。

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徒然日記 Vol 570

スティーブン・フォスターを聴きながら

 3月7日に議会での質問を行う。先月から準備し、質問内容を執行部に伝え、担当の課長などとやり取りをして、先日、質問文を仕上げた。この後は、答弁をもらい、その内容について吟味して、納得がいかなければ、更に前向きな答弁を求める綱引きが始まる。答弁は、来週からそれぞれの部署から持参の予定だ◆ということで、一段落しての今日は、自宅で昨年Fから送られてきたCDを聞き、パソコンをいじりながら、今日は何をしようかなどと思いながら、過ごしている。「友だちは元気かな?」と思っている時に、Fの奥さんさんから電話があった。タイミングの良さにびっくりした◆まさしく、以心伝心。孫が一年生になるが、私の作った木づくりのおもちゃと、連れ合いがいつか送った、食器がとても気に入っている、とのことだった。F夫妻は、大学時代からの友人で、私たちの披露宴にも神戸からはるばる熊本まで来てくれて、新婚旅行も同行し、福岡では同じホテルに泊まり、夜は4人で親不孝通りの飲み屋に行き、楽しく酒を交わした◆あれから、40年以上も過ぎたが、今でも親交が続いている。友から送られたCDは、「やぎたこ」という男女の二人が歌う、スティーブン・フォスターの名曲の数々。心に染み入る歌を聴きながら、懐かしき遠き若かりし頃の大学時代や新婚当時を思い出して、何やら泣きそうになる今日の日だ。

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徒然日記 Vol 569

黙食・黙浴・黙蒸

 この、コロナ禍により、私たちの暮らしの有りようが、大きく様変わりした。マスクをしていない人は、白い目で見られ。スーパーなどで咳をしようものならば、近くにいる人は、あわてて遠ざかる。昼食にと、ラーメン屋に入ると「黙食」の張り紙があり、誰もおしゃべりをしていない。温泉に行けば「黙浴」の張り紙が張ってある◆そして、サウナに入ると「黙蒸(もくむす)」の張り紙が。下には、「サウナを愛するマナー良きサウナーの皆さまへ。より良いととのえのために、声かけはご遠慮願います。声をかけられれば返事をしなければなりません」と、あった◆「私語禁止」「お静かに」とかの張り紙にはない、温かな丁寧な表現の文章に、内心ほくそ笑みつつ感心した。黙蒸もサウナーも造語であり、そして、「より良いととのえのために」という表現。きっと、この張り紙を読んだ人は、「俺はサウナーなんだ、より良いととのえのために、話をしたくても黙蒸に励むのだ」となってしまうのだ◆それにしても、黙蒸とは?!よく考えたものだ、と思いながらも、会話を楽しみにしての食事や温泉での入浴ができない、この現状はなんとしょう。マスク無しの暮らし、そして、温泉や飲み屋などで、誰にも気兼ねすることなく、仲間同士で楽しく対話ができる日は、いつやって来るのだろうか。文字通りの、息苦しい日々は、まだまだ続く。

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徒然日記 Vol 568

鬼はそと~爺ちゃんもそと~

 熊本でのコロナの感染は、少しずつではあるが減少傾向にはあるものの、未だピークアウトに至らず、病床使用率も80㌫を超えてひっ迫している。私の身近な方たちへの感染も広がっている。ミニバレーの仲間も感染し、市議会議員も48名のうち、すでに4名が感染した。そのうちの一名は、私の会派のT議員◆熱は無くて鼻水と咳だけの症状だからと、今週の団会議に出席していた。その後も、議会棟に来ていた。先日、私からT議員に、感染の疑いありだから検査するように勧めた。本人は、熱が無いから大丈夫と、言い張ったが、熱が無くても感染していた人の話をして、納得して検査することに。結果、陽性だった◆おかげで、昨日は会派の控室は消毒のために閉鎖され、彼以外の議員と事務の職員の9名はPCR検査を受けることとなった。本日の午前中に、私を含む4名の議員は、幸いにも陰性だった。その他の人たちは、夕方以降にしか結果がわからない状況だ。たった一人の、危機管理の甘さから、多くの人が迷惑をこうむることになった◆今回のオミクロン株の症状は、軽いと言われるものの、その感染力はすさまじいものだ。私は、昨夜は家族に移したら大変なことになるので、用心のために、一人で夕ご飯を食べて、湯たんぽを入れて車中泊だった。ちなみに、昨日は節分。コロナという鬼を退治しなければならないのに、「鬼は外で爺ちゃんも外だ」と、孫たちに笑われた。会派の議員、そして事務の職員が感染していないことを祈るばかりだ。※後日全員の陰性が確認され、事なきを得る。

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徒然日記 Vol 567

哀しい時代になってしまった

 先日、夕食中に高2の孫がスマホを見ながら、食事を始めた。すかさず「なんしよっと?食事中はスマホはだめだろう」と言うと「なんで?テレビの代わりたい」と言う。これまで、食事中であっても、ニュース等があるときは、テレビをつけて食事をしていた。しかし、孫たちがテレビを見て、食事が進まない時は、テレビを消したりしてきた。食事をしながら、時には今日一日の出来事とかを家族で話をしたりするのが、団欒だと思っている。しかし、先日は、今度は中1の孫がスマホにイヤホンをつけて音楽を聴きながら、食事を始めた◆高2の孫と同じように注意した。ところが、何故ダメなのかが、分からないようなので、いったん食事を中断して、話をした。「例えば、食事中に爺ちゃんが新聞を読み、婆ちゃんがテレビを見て、パパが本を読んで、あなたたちがスマホを見たり、音楽を聴いたりしているとしたら、どう思う?」「家族みんながバラバラで食事するのと同じでは?」「食事をしながら話もしないなら、家族で食事をする意味はない」と言った◆私が、しつこく話をするものだから、高2の孫は「わかった、わかった、もういい、ご飯食べよう」と言う。本当に分かったのかは、分からないが、その後は、いろんな話をしながら食事を終えた。以前、居酒屋で若者たち数名が、皆スマホを手にしていて、会話が殆ど無い光景を見た。私の時代は、飲み会と言えば、政治や人生や恋愛などについて、友人たちと熱く語り合ったものだ。しかし、あれから40年以上も過ぎてしまった。今の若者たちの飲み会の光景を見て、そんな時代だといえば、そうかもしれないとは思う。しかし、インターネットの普及で便利になったものの、反面、人と人との対話や絆が失われ、より良き文化が壊れつつあるようだ◆もしかして、今どきの若い世代の家族の食事は、同じ場所にいながらも、パパはスマホ、ママはテレビ、子どもは音楽、とかが当たり前の時代なのかもしれない。孫たちも、いずれ人の親になるだろう。その時に、今どきの家庭と同じように、団欒の無い食事をするのだろうか?そうなってほしくはないから、うるさい爺さんだと思われても、きちんと思いを伝えなければと思っている。我が家にまで押し寄せてくるスマホの弊害の波、ため息しか出ない、哀しい時代になり果ててしまったものだ。

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