徒然日記 Vol 449
また立ち上がり生きていく
先週末、県職連合(労働組合)の呼びかけで集まった18名の仲間と一緒に、八代市坂本町の災害ボランティアに行ってきた。当日は、一軒の家の畳出しや軒下の泥出し、壊れかけた倉庫の撤去と倉庫下の泥出しが主な作業だった。私と同じ歳ほどの夫婦の方の実家で、高台にある家だったものの、7月の豪雨の日、一階の2メートル近くまで水が来て家財等がほとんど水にやられてしまい、近隣のほとんどの家屋も被災◆「この家は解体して、更地にして畑にでもしようかと思っている。もう誰もこの地域には住まないかもしれない」と寂しそうに、奥さんが話をされていた。作業は9時過ぎから数班に分かれて始まり、熱中症対策で15分から20分おきに10分ほどの休憩と昼休みの一時間をはさみ、午後の3時まで続けられた。当日は時折、恵みの霧雨が降ったものの、午後は晴れて30℃以上の暑さ。私は、頑張る若い人たちの背中を見ながら、老体に鞭打ち最後まで畳運びや泥出しに汗した。いくら水分を補給しても、喉の渇きはおさまらず、作業が終わる頃には、全身汗まみれで、足腰はガタガタだった◆被災地では、あの豪雨から一カ月が過ぎても、人や機材の不足により、多くの被災者の方々の片づけ等の復旧活動が未だ続いている。命以外のほとんどを災害で「無」にしてしまい、毎日を片付けに明け暮れる日々。その心労は経験した者にしかわからず、計り知れないものだ。それでも、淡々と作業をし話をされるご夫婦に、帰り際に「頑張ってらっしゃるのになんですが、身体に気をつけて頑張ってください」と言って、別れた◆帰りのバスから球磨川の様子を見ることができた。赤い鉄骨の橋が流され川に沈んでいた。河川敷の竹林が下流に向かって斜めに倒れたままだった。対岸の河川横の道路の何カ所もが大きくえぐられていた。人吉近隣を走る肥薩線の復旧も見込みが立たない。復旧・復興には、早くても3~4年はかかるだろう。そしていつしか小さな集落が、いくつか無くなっていくのかもしれない。地震に豪雨、天災は忘れる間もなく、街を壊し人の命を奪っていく。それでも生き残った人たちは、また立ち上がり淡々と生きていくのだ。7月に荒れ狂った球磨川の、今は静かに流れる緑色のたゆたう水面を見ながら、そう思った。
↓作業後の私
↓災害ゴミの山
↓畳は畑に並べた
↓球磨川と竹林 ↓流された鉄橋の残骸
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