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2016年5月

徒然日記 Vol 266

奇跡の軌跡  Vol 4

 本震の翌日の4月17日の夕方、先輩の元市議の上村さん宅を訪問。上村さんの話では、お隣の車椅子の母親と娘さんが困っているとのこと。聞けば、16日の午後に近くの市営団地の避難所になっている集会所に避難を求めたら、自治会長に「校区外」を理由に避難を断られたとのこと。「集会所はお前の物か!」と、殴り込みにでも行こうかと思ったものの、やめた。怒りを通り越して泣きたくなった■早速、武蔵コミセンの避難者の方々に報告し相談した。皆さん口々に「なんてひどいことを」「かわいそうに」「すぐにここに連れて来て」と言ってくれた。翌日、私の車でお二人をコミセンに連れて行った。18日に息子の誕生日のケーキを調達。ガソリンスタンドもスーパーも開いていて、ガソリンと電池なども調達した。その帰り道に、コミセンの高齢者の方のための折りたたみベッドを探していて、元同僚の家が近くにあることを思い出し、電話した■彼女の第一声は「福永さんベッドは探すけど、お風呂に入ってないでしょ?いつでもいいから、みんなで入りにおいで」と言ってくれた。涙があふれた。泣きながら運転している時に、携帯に義妹からメールが、「今、車ですれ違ったよ。今からお墓を見に行くところ。お母さんは大丈夫?しばらく預かってもいいよ」とあった。涙が止まらず、車を停めた■夜に、義妹からメールが来た。「記名簿の石塔だけ倒れ、福永家の墓石だけ無事に立っていて、残りは倒れたり落ちたりずれていた」と書いてあった。翌々日の20日の午後に友人の好意に甘えて、家族と、そして車椅子の家族二人を連れて、お風呂に入れてもらった。5日ぶりの湯船につかりながら、このまま「死んでもいい」と思うほど気持ち良かった。5月5日の弟の命日の日に家族で墓参りに行ってきた。義妹の知らせのとおり福永家の墓石だけしっかりと真っ直ぐ立っていた。お線香の横に、私が火をつけた煙草を立てて、祈ってきた。

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徒然日記 Vol 265

奇跡の軌跡  Vol 3

  パーテーションづくりのための段ボールを調達してくれたOさんは、その後も、水や米等の食材等をどっからか集めて来て、コミセン等の避難所に提供してくれた。後日、Oさんの関係でダンボール会社の担当者と繋がり、話をして市に働きかけて窓口ができた。それ以降、会社を通して無料でパーテーション用のダンボールやダンボールベッドの提供が幅広くできるようになった■今回の震災では、Oさんをはじめ多くの人たちが、避難者に寄り添い、気遣い、ボランティアで活動された。コミセンでは、避難者のために食事を作ったり、高齢者のお世話をしたり、トイレ用の水を確保するための水汲みなどで動いていただいた。飲み水が不足する頃に、私の向かいのWさんが知り合いの井戸水を提供してくれた。5月に入り、家族が疲れきった頃には、私の弟も甥っ子と二人で埼玉から駆けつけてくれた■その後も、大学時代の友人が神戸からと茨城からと次々に来てくれた。中学時代の友人や、武蔵小の避難所に救援物資を届けてくれた岐阜のNさんからは、避難者にと、ジュースや電池や簡易トイレや衛生用品などが大量に送られてきた。これらの物資は、武蔵中の避難所で知り合ったHさん(ボランティアで不足する物資を調べて調達されていた方)を通して、後日、益城町に配達していただいた。そして、つい先日には、北海道の友人から地震見舞いにと現金が・・。多くの方たちに支えられて生きていることを実感する日々だ■自治会長のKさんや民生委員のOさんなどに「相談事がある」と思うと、タイミングよく、すぐに目の前にお二人が現れた。そしてこんなことも。被災後の10日目ぐらいだったろうか、午前中に連れ合いと二人で近隣を見て周り、二人ともお昼を作る気力も無いほど疲れきって、「お昼はパンにゆで卵をはさんでマヨネーズをぶっかけて食べたいね」と言いながら、避難先の西公園に車を停めた。するとそこに、公園の愛護会長でコミセンの管理人のMさんが袋を持って立っていた。なんと、「食べてください」と渡された袋の中には、食パンとたくさんの卵が・・・・。奇跡の日々が毎日のように続くのだった。

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徒然日記 Vol 264

奇跡の軌跡  Vol 2  

    14日夜の前震とそして16日深夜の本震の恐怖が今でも体に染み付いている。余震があるたびに、体が反応して「うおっ」と声を上げる。大人は先の見通しも含めて頭で理解できるが、子どもたちには理解しづらく、心の中の不安や緊張は計り知れない。東北では、数年後に体調不良を訴えたり、不登校や引きこもりになった子どもたちも多くいたと聞く。しっかりとこの苦難を乗り越えてほしいものだ。今回は、地震後の出来事の奇跡の軌跡の続き■前震があった日は、家族6人は近くの公園に避難し(近隣の人50人ほどが避難)午前中には息子がブランコにビニールシートをかけて仮設の避難所を設置。そして、屋根つきのテント下に暖炉を設けて、夜に備えて暖を取る場所も設けた。母は5日目に近くのコミセンに避難した。しかし、私を含めた残り5名の家族は二週間ほど、他の避難者と共に公園でのテント生活と車中泊が続いた。16日の本震後に水は止まったが、備蓄していた水や冷蔵庫の食材を使い、16日の午前中には家族と避難者数名でテント下で豚汁を作り、公園の避難者に提供。その日の午後には、私が楠中央公園の備蓄倉庫から持参したアルファー米の一箱300食を調理し、小中学校とコミセンの避難者に提供した■そして、翌日には、私たちの姿を見てコミセンに避難する家族や、ボランティアの人たちでの炊き出しが始まった。ガスコンロとガスボンベは私の知り合いの業者とあゆみ保育園から提供してもらった。電気だけは生きていたので、各家庭の冷蔵庫から食材を持ち寄り、食事を作り、車で近隣を回り「食事が不足する人たちはコミセンに来てください」と知らせる活動もした。18日には、子供会やPTAの呼びかけで、避難所で後日必要となるパーテーション作りをした。パーテーション作りはその後も2回実施し、延べ100人以上の親子での参加があり、200組以上のパーテンションが出来上がり、小中学校の避難所に提供した■この取り組みは、取材もあり地元紙の記事にもなった。奇跡が起こったのは16日の夜だった。パーテーションを作るためにはダンボールがいるが、どこにも無い、どうしたものかと公園の暖炉脇にすわり思案しているときに、毎月廃品回収で顔を合わせる(ボランティアで参加の)Oさんが仕事帰りで公園に立ち寄ってくれた。私の話を聞いたOさんは、翌日仕事を休み、一日中駆けずり回りダンボールを集めてくれたのだ。Oさんとの出会いと、そして子ども会やPTAのネットワークで繋がった、パーテーションづくり。ほんの思い付きが、ほんの数日で実現できたことの不思議。今更ながら、震災という不幸な出来事の中の、奇跡の数日だったと思う。

■子どもたちが避難者のためにパーテーションに元気な明るい絵を描いてくれた。使われずに引き取ったものの、捨てるにはもったいない作品の数々。子どもたちの優しさに心が洗われ、そして、救われる。

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徒然日記 Vol 263

奇跡の軌跡  Vol1

 激震の日からすでに三週間が過ぎた。あっという間だった。そして、今もなお余震が続く。しかし、14日から一週間ほどの記憶が定かではない。がむしゃらに走り続けたからだろう。その間、多くの奇跡的な出来事がいくつも起こった。震災の記録と共に、様々な人間模様も交えれば、本の一冊分ほど書けるかもしれない。特にこの間に感じたことは、人との縁だ。しなければならないと願ったことが、次々と人と繋がり叶っていくことの不思議だ。何かしら呼び合うものがあるのだろうか、そこには不思議な出会いと出来事がいくつもあった。そんないくつかのエピソードの中でも、4月18日の話は、格別だ。奇跡の軌跡としてお伝えしたい■4月18日は息子の誕生日だった。ケーキだけはと思い買ってきて、その夜に公園のブランコに張ったテント下で、家族と車中泊の方々など10名ほどで誕生会をした。ハッピバースデイの歌が終わるころに、前の晩に一緒に公園の暖炉で過ごしたEさんが「こんばんは」とやって来た。私が「ちょうど良かった。今セレモニーの真っ最中。息子の誕生日です」と伝えると、なんとEさんは「私もですよ」と答える。その夜、改めて二人の誕生日を祝ったのだ。そして翌日、その話を自治会長のKさんに話すと、Kさんは「私も18日が誕生日なんだけど」と・・・■驚いてしまった。そして、更に数日後、私の連れ合いを訪ねて隣の龍田校区に住むHさんがやって来た。彼女は、連れ合いの会社の会計事務をお願いしている事務所の職員。玄関で震災の話になり、彼女が「私の曾祖母がこの前108歳の誕生日だったけど、震災でケーキをキャンセルしたんですよ」とのこと。曾祖母の誕生日を聞くと、なんと4月18日だった。そして、そして、更に、話は続く。その日の午後、母が避難してお世話になっているコミセンに行き、4月18日の話をしたところ、なんとコミセンに避難している女性の娘さん(娘は天草に避難)も4月18日生まれだった■地域のわずか数百メートルの輪の中に、私たちが知っている人たちに、4月18日生まれが、全部で5人もいた。地震が縁で繋がった4月18日生まれ。来年は、この近隣でも最高齢のお婆ちゃんをはじめ、4月18日生まれの5人を囲んで、きちんと誕生会のやり直しをしたいと思っている。その頃には、益城町やお城や阿蘇の大橋やトンネルなども含めて復旧・復興も、着々と進んでいることを祈るばかりだ。

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徒然日記 Vol 262

眠れない夜

 震災の日からずっとテントか車の中での宿泊が続く。晩御飯は、家族で散らかったリビングで食べて、しばらくして近くの公園に行き眠る生活だ。疲れて、パタッと眠るものの、どんなに遅く寝ても6時前後には目が覚めるようになってしまった。これも震災の影響だろうか?昼間に突然睡魔に襲われて眠ったことも幾度かある。きっと熟睡してはいないのかもしれない。東北で震災を経験した人たちの中には、数か月後、数年後に体調を壊したり、精神的に不安定になった方が多くいらっしゃった。特に、数年後に子供たちの不登校や引きこもりが増えたと聞く。あまり頑張りすぎると、後の反動が大きい。休む時はしっかり休もうと思う。しかし、夏の参院選の選対事務局長としては、7月10日のあべ広美の当選が確定するまでは、きっとしっかりと休むことはできないのだろう。

■4・19楠小・避難者  ■4・20武蔵小・給水待ち

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■井無田高原近隣道路    ■5・1健軍商店街

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■5・1健軍商店街          

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■4月26日楠中の避難所。避難者には2~3枚の毛布のみ。担当の岡山市の職員に、毛布の在庫を確認。毛布ありの回答。なぜ支給しなかったのか?誰も気がつかないことに怒りを通り越して、泣きたくなる光景。
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■5・5弟の命日・墓石          ■西公園ブランコにシート

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■画像は、龍田5丁目の家屋倒壊と法面崩壊の危険ありの場所。4月30日に北部土木局長に通報。当日、この家の下の住民に危険を伝えるも、避難なしの状況。5月3日になっても市の対応無く、再度、都市建設局長に繋いで、夕方になりやっと動きがあり、近隣の二軒に避難指示。また、これより以前にも、龍田もえぎ台一角の住宅地が、がけ崩れの恐れありを通報。当初、民間の土地ということで、市の対応無しの状況。民間の土地であっても、市としての責任ありとして追及し、翌日に業者依頼によりブルーシートを崖にかけて、市の担当が住民への説明を実施。更に、一軒に対しての避難指示が・・。

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徒然日記 Vol 261

油断大敵
14日の前震があった日から、すでに3週間が過ぎた。しかし、いまだに余震が収まらず、落ち着かない。更なる巨大地震が一ヶ月後に起こり、地震の範囲も南海トラフへと広がって行く、などという噂まで聞こえてくる。確かに、今回の熊本地震を受けて、地震学者も今後の地震の動きについては、予測不可能としか言えない状況だ。新潟中越地震でも、一ヶ月後に震度5があった。16日の地震が本震前の前震だったということもあるのかもしれない。自宅を失い、見えない未来を手探りで探している人たちもいる中、多くの人が家の片付けも終わり、何も無かったかのようにこの町も動き始めた。私たち家族は、雨に濡れた家の天井や畳の修復が終わらず、片付けをしながらの庭先のテント生活が続く。私も、近くの公園に車を停めて、避難の車の管理等のために、車中泊の日々だ。しかし、油断大敵。自宅で過ごすのであれば、避難経路を確保し、タンスなどの下敷きにならないように注意しなければならない。

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徒然日記 Vol 260

あべ広美と共に
5月3日の午後は、参院選野党統一候補のあべ広美さんと共に、近隣の被災地を視察した。特に、龍田地区の崖に面した地域や、断層に沿って土地や家屋が大きく被害を受けた地域などを視察した。私は4月30日には住民の通報により、断層に沿って被害を受けた地域に入った。そして、行政にその危険度を伝え、対応を求めた。市民の多くは、自己判断のもと自主避難した方もいたが、大きく傾いた家屋の下に住む市民は、その危険度を知らされないままの生活を送っておられた。あべ広美さんと地域を回りながら、市の都市建設局長とやり取りをし、夕方には、先の市民を含む2件の家に避難指示が遅ればせながらも発令された。市としては激震地対応に追われ、なおかつ人手不足で迅速に動けないのかもしれないが、危険と知らされて、3日目の避難指示というのは問題だ。地域の役員の活動が停滞し、なおかつ地域に議員もいない所は、なお一層対応が遅れることは必至だ。あべ広美さんは、しっかり被災者の声を聞き、被災状況hも見た。今回の地震を受けて、多くの課題が見えてきた。彼女にはその事を、議員になって国に伝え、改善してもらいたいものだ。

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徒然日記 Vol 259

引っ越しと片付けの日々
今回の地震で私の関係する様々な所が潰れた。参院選の候補のあべ広美の事務所と後援会と選対事務所のビルが潰れ、三回の引っ越しを…。そして、我が家と議会の事務所の片付けと、選対事務所の開設準備。一番キツかったのがあべ広美弁護士事務所の引っ越しだった。書類の詰まったダンボールを肩に担ぎ、階段を何回も登った。この10年ほどの中で一番の重労働だった。気力はあるものの、体力がついて行かなくて、疲れが取れない。しかし、家を無くし明日さへ見えない人たちに比べれば、幸福であろう。命を失った人たちの分まで、私たちは頑張って生きなければならない。5月いっぱいは、武蔵ヶ丘西公園の管理人として、車中泊を続けるつもりだ。余震は続く、まだまだ油断できない。

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