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2012年7月

徒然日記 Vol 79

7・12水害報告 Vol

 7月12日の北部豪雨災害から三週間目を迎えようとしている。地元の龍田地区の被害は全半壊158世帯床上165世帯となっている。これまで、時間があれば被災地や避難所などを視て回り、多くの方々の意見や要望を聞き、できることは行政の担当に繋いできた。昨日の午後は、龍田陳内の知り合いの方の見舞いに伺った。工事関係者がリビングの床を張り替えていたが、知人は和室で横になって昼寝の時間、声もかけずに立ち去った。熊本市内は幸いにして死傷者はいなかったものの、いまだ自宅に帰ることもできずに避難所で生活されている方々が14世帯27名いらっしゃる。また親戚や友人知人の家に身を寄せている方も多くいらっしゃる。心身ともに疲れきった方々の体調が心配だ。避難所は現在三箇所。陳内公民館と龍田小学校には冷房があるが、3世帯6名の方が避難されている龍田体育館には冷房が無い。行政としても冷房のある龍田小学校の教室への移動を勧めているが、全員「動かない」とのことだそうだ■行政としての初動体制には、いささか問題があったものの、その後の被災地の復旧は、道路の確保から始まり、多くのボランティアの方々の労力により家屋内外の土砂の撤去や家財の片付け等も一段落した。今後は、被災者の生活再建に向けて、行政としてできうることを最大限に発揮しなければならない。被災された方々の意見や要望としては、「何故避難の指示が遅れたのか?防災無線や水防サイレン設備を早急に整備して、危険時には住民の生命・財産を守ることのできる体制づくりをきちんとしてほしい」「川底に多くの土砂が堆積している。台風シーズンを迎える中、更なる洪水が心配。危険箇所の整備を急いでほしい」などの意見が上がっている■先日伺った所では、奥さんが家の周辺を一人で片づけをされていた。「職場の仲間や、ボランティアの方々のおかげで、だいぶ綺麗になったが元の暮らしに戻るには、まだまだ時間がかかる。ずっとこの家で暮らしたいと思っている。でも、今のままでは不安だ。川の改修や防災体制がきちんとできるまで安心できない」と話をされた。ジリジリと照りつける真夏の太陽の下、未だ汗と泥にまみれての家の片づけが続いている。8月27日開会の9月議会では、2910時からのトップバッターでの質問に立つことになった。被災者の方々のご苦労と、その願いに思いを寄せて、市としての今後の具体的な取り組みの回答を引き出さなければならない。

◆写真

①龍田小分離校予定地に集められた瓦礫と土砂

②龍田小の避難所 7月29日現在6世帯11人

③寄せ書き 龍田出張所前

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徒然日記 Vol 78

7・12水害報告 Vol 

7月19日今日は、以前の職場の仲間四人と一緒に災害ボランティアに参加して来た。何故ボランティアか?というと、何かしなければという、いても立ってもいられないという思いと、知人にボランティアを呼びかけるためには、自分が経験しなければ、人にも頼めないと思ったからだ。行き先は龍田1丁目の70代の夫婦の自宅。朝9時から16時まで一階部分の床下に溜まった土砂の撤去をしてきた。その自宅は床下浸水で、床下の泥も1~2センチ程度だった。水で泥を流しながら溜まった泥水をちり取りや雑巾で取り、バケツに入れて何回となく運び出した。なんとか、5人で16時までに終わることができた。ほんの数センチの土砂の撤去に5人がかりで汗と泥水にまみれて一日かかるのだから、床上浸水の家屋や阿蘇の家屋の土砂撤去や家財の片付けには何日を要することだろう■その夫婦は、自宅近くに娘の家があるが、ほとんど毎日炊事場の狭い空間で寝ているとのこと(二階は荷物でいっぱいで寝る場所が無い)。被災当日は、22年前の経験があったために、早朝から川の様子を何回も見に行っていて、見る間もなく水が押し寄せて来て、あわてて8時30分頃に車で避難したそうだ。しかし、川岸から離れた北側の方たちは避難が遅れて、ほとんどの家の自家用車が水で浸かり、徒歩での避難だったとのこと。ご主人が「川の近くだったということで危機感があった分、ある意味良かったと思っている」と話をされた■今後の対策として、被災された龍田地区の多くの方の意見は、川幅の拡幅・川底の浚渫・堤防のかさ上げと新設等を要望されている。しかし、そのほかの意見として「そもそも、歴史的には洪水時に水に浸かる事を想定された土地に、家を建てる事を認可した県や市の責任もある。行政として、高台に土地を見つけて住まいを提供してほしい」「避難指示の遅れで車や家財を失くした。その補償責任は市にある」という意見の方もいらっしゃった■龍田陳内の川岸の畑が土砂で全滅して片づけをしていた高齢の男性の方は、「俺は50年前に高台に引っ越した。そもそも、ここは住む所じゃない」と言われた。22年前の教訓が生かされないままに甚大な被害を受けた龍田地区。今後の対策として何ができるのか?どうすべきなのか?地域の意見を聞きながら、龍田地区の復旧・復興そして再生に向けて、私は、努力しなければならない。ちなみにボランティアの不足が懸念されていたが、昨日が390人。本日が659人。今度の土日は県外からの応援も含めて1000人程度との事。私もまた時間を見つけて参加しなければ・・・・。

◆写真/筆者・頑張る仲間・昼食・泥出し後の床下 Will_259_4 Will_255_3 Will_260_2 Will_264_3

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徒然日記 Vol 77

7・12水害報告 Vol 1

 Photo_8   7月12日の悪夢の朝から三日目の15日、やっと雨が上がった。私は当日の午後から毎日、龍田地区の被災地や避難所等を視察して来た。その間、各地域の住民の方々の話を聞き、北区の担当者や北部土木センターなどとやり取りをして、避難所のあり方や住宅地の汚泥の撤去などの改善要望を伝えてきた。三日目となり、ほぼ全体像が見えてきたが、7・12当日は混乱の極みだった。当日午後に龍田出張所に行った。出張所には対策本部もまだ設置されず、本来業務をしながら、出張所の職員だけで避難所の受け入れ等の準備を慌しく行っていた。当日の夕方から翌日には本庁や北区からの応援の職員が10名以上配置されたが、翌日の午前中でも全体の被害や避難者の状況がきちんと把握できず、交代される職員間の連絡も密にできていなかった■当日から土木センターや委託業者や消防団により公道の復旧作業が行われ、13日の午後からは、市から委託された業者の重機が導入されて、住宅街の汚泥の撤去が始まった。また、ボランティアセンターも龍田出張所に設置され、15日には200名以上の市民の方々が復旧のボランティアに入った。避難者(龍田出張所での把握数)は、当初90名ほどだったが、15日現在で指定された4箇所の避難所に40名ほど。当日と翌日は、指定以外の近隣の公民館等に避難した方々も数多くいらっしゃった。被害の一番大きかった龍田陳内の避難者は、陳内公民館に当日50名ほどがひしめき合って、寝泊りをされていた(15日現在9世帯22名)。13日には、ヘリコプターで救出された方々の一部の家族、4世帯7名が出張所横の龍田体育館に来られた■避難された方々の話を聞いて、今一番感じていることは、住民の方々の危機管理意識と地域力の違いだ。地域ごとで当日の朝の動きが違うのだ。龍田陳内の一部の地域では、住民相互で川の状況を徹夜で監視して早期に避難されていた所もある。しかし、同じ龍田陳内でも新興住宅地やアパートの方々は、川の増水に全く気付かずに、床下まで水が来て、自宅二階に避難してヘリコプターで救出され九死に一生を得た。上流の龍田弓削地域では、消防団や自治会役員や近隣の方同士の避難指示で避難された所が多かった。龍田全域の被害の状況を見るにつけ、死者が一人も出なかったことは奇跡に近い。その理由は、土砂を含んだ水が住宅の一階の天井付近で留まったこと、一部全半壊の家屋もあったものの、蛇行している河川の影響で水の勢いが幾分か軽減され、多くの家屋を破壊するまでに至らなかったこと、そして何よりも、危険を察知して、いち早く避難した方が多かったこと、などの理由があると思う。早期に避難した方々は、夜中や早朝から準備をされて、貴重品や自家用車等を守ることができた。ヘリで救出された方々は、誰からの指示も無く孤立され、ほとんどすべてを失ってしまった■被災された地区では、当日7時から7時30分の間に川は氾濫していた。しかし、市の避難指示は9時20分だった。「想定外」と言ってしまえばそれまでだ。今後、市は、なぜ避難指示が遅れたのか、その原因を明らかにし、家財などを一瞬にして失くしてしまった方々の非難を真摯に受け止めて、対応していかなければならない。昨日話をした龍田陳内の住民の方の「堤防には監視カメラが設置されている。誰が見ていたんだ。私たちは22年前を経験していたから早期に避難できた。しかし、もうここには住めないかもしれない」の言葉が耳から離れない。

■龍田陳内の被害状況 7・15午後撮影

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徒然日記 Vol 76

人というほほ笑み

地域から小さな店がいくつも無くなっていく中、その分コンビニがこんな所にも、と思うほど街中いたるところにできている。そんなコンビニをたまに利用する時に気になることがある。それは、店員さんの言葉遣いだ。ある店に入ると、複数の女性の甲高い声で、「いらっしゃいませ~~~」。「いらっしゃいませ」は、いいのだが、「せ」が長いのだ。5秒は続く。無駄に長い「せ~~~」を聞くたびに、私は「スト~ップ!」と言いたくなる。それともう一つ、買い物をして、お釣りに一円玉とか五円玉を渡す時に「お釣りです。お確かめください」とのたまう店員さん。「たった一円を確かめる必要はないっ!」と言いたくなる。が、しかし、彼女たちは、きっとそのコンビニの接客マニュアル通りに実行していることだから、仕方がないのかもしれない■そんな小さなことに、苦笑しながら、違和感を覚えていたそんなある日、立ち寄った本屋さんで手に取った井上ひさし氏の「日本語観察ノート」(1999年著)の最初の項の「敬語壊滅現象」を読んで、「これだ」と思った。冒頭には文化庁の国語に関する世論調査の紹介で「ファーストフード店に一人で行き、十人前の注文をしても、店員が『こちらでお召し上がりですか』と聞く。こんな画一化された対応にも違和感を持たない人が、若い世代に増えている」と書かれていた■このことに対して、井上氏は、「今の時代はマニュアル敬語が全盛。敬語の使い方に不案内な世代を雇う経営者たちが、敬語マニュアルや行儀作法を教え込む時代になっている。教えられた方は、それを杓子定規に機械的に運用するだけなので、そこに笑いが生まれる。しかし、若い人たちは、自分たちが喜劇を演じていることに気がつかない。あるいは気にしてない」「私は、これらのマニュアル敬語を『商業敬語』と呼んでいるが、現代の社会は、他人との関係を、お金を介在させた売り手と買い手の関係でしか把握できなくなっている。店員さんたちは、お客にではなく、お客の財布に教わった通りに敬語を用いているだけなのだ」「この現象は他人との関係が曖昧な、今の社会を映し出しているはず。その根を突き詰めれば彼らの親たちの責任に違いない。彼らは親の真似をして育っただけなのだ」「私たちは人間として同じ値打ちを持っている。しかし、場面によっては、サービスをする側と受ける側に、いわば正反対の立場に立たざるを得ない。その時に、サービスする側に『お腹がすいているでしょう、うちのたべものはおいしんですよ。さあ、どうぞ』という『人は人に対して人』というほほ笑みがあれば、そこに自然に敬語的態度が生まれたはず」と書かれていた■この文章が書かれた時から13年が過ぎた。そして、今の私は市議会議員だ。私自身は以前の福永洋一のまんまなのだが、時折、幾人かの行政の方の「先生。これはですね・・・・」と説明される時や、地域の方が「先生。忙しいでしょう」と話をされる時の物腰や眼差しが、画一的で機械的で、コンビニの店員さんたちの雰囲気とダブる時がある。私自身は、行政の方や地域の方とは対等であると思っているし、年上の方や目上の方にはキチンと敬語を使っている。議員だからといって威張りもしないし、以前の私のままだ。しかし、世の中の商業敬語は、広く世の中に触手を伸ばし、日常的な人間関係の中にまで、売り手と買い手としての人間関係が成り立ってしまいつつあるような気がしてならない。今度あのコンビニに行った時に「いらっしゃいませ~~~」の挨拶に、ほほ笑みながら「ありがとうございます~~~」と返してみよう・・・かな、と思う。

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