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2011年11月

徒然日記 Vol 57

心にジンワリと・・・落語「芝浜」

先日、馴染みの居酒屋「さくら」(味噌天神)で落語があった。落語との出会いは、学生時代だから30年以上も前のこと。その頃は、ラジオで聞いたり、文庫本で様々な落語を読んだりしたものだ。いつの日か、生で落語を聴きたいと思っていたが、思いを果たせず、現在に至ってしまった■当日の噺家は先代金原亭馬生の弟子「七代目むかし家今松」。東京末広亭で年末に開催される落語会では「芝浜」の演題でトリをつとめる実力派だ。その「芝浜」を一番前の席で生で聞くことができた。芝浜は、江戸情緒たっぷりの古典落語■その内容も最後の落ちも知っていたが、今松さんの噺に引き込まれてしまった。舞台装置も無く、道具は扇子と手ぬぐいだけで、聞き手をじわじわと江戸の世界に引きづり込んでいく、その技には感嘆するばかりだ。お江戸の世界の人情味あふるるその温かさが心にジンワリと染み渡り、終盤では、自分でも気づかぬうちに泣いてしまっていた■また、落語の世界にはまりそうだが、生の高座をとんと目の前で聞く贅沢な機会は居酒屋「さくら」しかないだろう。次回の高座が楽しみだ。

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徒然日記 Vol 56

若い人に物申す

この4年間で10K痩せた。そして、この一年間で8キロ太った。市議になったおかげで飲み方が増えたせいだ。そして、近頃、飲み会で自分の息子ほどの若者に会うと、以前にも増して「俺の遺言です。聞いておくれ」と、若者に管を巻いている自分がいる■若者に言っていることは単純なこと「本を読もう」「旅をしよう」「感動しよう」の三点に尽きる。昨夜も行きつけの居酒屋で、バイトが終わった大学生の女の子にしつこくからんできた。「最近読んだ本は?」と聞くと「ほとんど読んでません」。「バイト代は何に使ってるの?」と聞くと「洋服代」。「最近感動して泣いたことは?」と聞くと「ビデオで観た映画『頭の中の消しゴム』」と答えた。私も観たことがある映画だったので「どの場面で泣いたの?」と聞くと、「忘れました」との答え。熱きおっさんは悲しくなってしまった。それでも、「色んな本を読んでいろんな世界を知ろうよ。洋服はいつだって買えるけど若いときの経験は一度きり、バイト代を貯めて旅に出て見聞を広めようよ。そして、感動する心を育てようよ」と語っていた■そして、最後に「なぞなぞ」を出して頭を柔らかくすることの大切さを訴えた。なぞなぞの一問目は「雀が電線に117羽とまっています。猟師が散弾銃で23羽打ち落としました。電線に残っている雀は何羽でしょう?」。20代の彼女は「94羽」。隣に座っていた40代の女性は「ゼロ」と答えた。勉強ができる人はさっと計算して94羽と答えるが、頭が良くて想像力が豊かな人は「ゼロ」と答える。銃の音がして仲間が地面に落ちていけば、どんなにボンヤリした雀も飛んで逃げることだろう。時折、答えを聞いて「だけんなんや?」という顔の人もいるが、しっかり聞いてくれる人もいるのだ。そんな人には第二問として「蜂が限界まで飛べる距離はどれだけか?」という問題を出している。このなぞなぞ、今まで60人ほどの人に問うたが、まだ誰も即答できていない。3分程度で答えが分かった人は、きっと、素敵な人・・・かも?

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徒然日記 Vol 55

初登壇まで一ヶ月

 先週の日曜日からあっという間の一週間だった。というのも、日曜日の地元での市政報告会に始まり、翌日の幸山市長を交えた学習会、さらに労組関連の記念式典と市議会の保健福祉委員会関連の行事への参加、地元の市民の集いでの挨拶と労組関連の運動会の後片付けなど、忙しい毎日を送った。そんな日々の中でも、12月の議会質問に向けて、何をどんな風に質問しようかと日々思いをめぐらせてきた。質問の基本は、来年の春から政令市となるための、市としてのあるべき方策についてだ■来年からは五つの区に分かれて市の行政が行われることになるが、私個人としては大いなる不安を抱いていている。本来であれば、市役所が中心となって行っていた行政の機能が、五つに分かれるのだから、より一層きめの細かいサービスが市民に提供されるはずなのだが・・。不安の原因は、第一に「知識と経験を有する専門職としての職員数の絶対量の少なさ」それにともなって第二に「それぞれの区同士と本庁となる市役所との連携不足」さらに悪循環の末路として第三に「各区ごとの市民サービスの大いなる格差」等を懸念するからだ■多くの市民の方々は、政令市になることが具体的にイメージできないのが普通だろう。政令市になって一番目に見えて分かるのは、4月から街を走る区バスやコミュニティバスだ。そして、我が家の住所。その後、数ヶ月、一年二年と過ぎてから政令市としての実態を肌で感じて分かってくるのだろう?春までの残されたこのわずかな期間に、政令市に向けてキチンとした準備と計画・体制等を詳細に練っておかないと、「日本一暮らしにくい熊本」にもなりかねない。キーワードは「市民協働のまちづくり」だ。しかし、時々地域の方々の要求や要望を聞いていて首を傾げてしまうことがある■ご自分の住んでいる校区や小さな町の範囲の中だけでの、視野の狭い改革や改善を望まれる声に対しては、時折失望を禁じえない。私は確かに地元あっての市議会議員だ。モデル地域としての地元向けの施策もあってもいいとは思う。しかし、特定の地域だけが発展しても市全体の発展には繋がらない。他人の不幸の上に成り立つ幸福などあってはならない。今後、市議として目に見えること見えないこと、小さなことから大きなことまで、一つ一つに真摯に取り組み、改善していかなければならない。地域エゴを乗り越えて市全体の未来のために力を注ぎたいと思っている。いつの日か「あ~熊本に生まれてきて良かった」と誰もが思えるように・・。議会初登壇は12月の6日火曜日の午後2時からの予定だ。残り一ヶ月。じっくりと質問内容を考えていきたい。どうか熊本市のために、この私に、ご指導ご鞭撻をいただきたい。

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徒然日記 Vol 54

11月の誓い

あっという間に11月。11月9日は私の誕生日。58歳になる。来年は数えで60歳、還暦だ。親父のことを思えばこんなに生きられるとは思ってもいなかった。親父は27歳の時に20歳前の母と知り合い、三人の子どもを得て、一年ほどの闘病の果てに34歳の若さで亡くなった。私が小学校に上がる前の年だ。私の下には、その当時、4歳と生まれたばかりの弟がいた。その頃父親は、兄弟で製材所を営んでいた。私は生まれたときから材木に囲まれて暮らしてきた■父の死後、私たち家族は親戚の伯父や伯母たちに支えられて暮らした。母一人では家族4人での生活が厳しいので、母が手に職をつける間、私や弟はそれぞれ親戚に預けられた時期もあった。だから、親父の死後、家族4人が一緒に生活したのは、熊本市内にある母子寮での2年間だけだ。小さな頃から引越しを何度も経験して、小学校は三箇所行った。中学・高校時代は伯父伯母の家でお世話になった。伯父は酔っ払うといつも同じことを私に言った。「お前の母さんは若いときから一人でお前たちのためにがんばって来た。しっかり勉強して、いい会社に就職して、しっかり親孝行するんだぞ」と■幼い頃は父親のいないことに対して何も思わなかったし、苦労を苦労とも思わなかった。しかし、大学(夜間)に行くときや就職活動のときなどに、「親父が生きていてくれていたらば・・・」と、一人親の家庭の悲哀を感じたことがあった。今思い返せば、自分の不甲斐なさを父親の不在を理由にして、我が人生の苦難から逃げようとしていたのだろう。今、親父の歳をとっくに過ぎて思うことは、「親父がいなかったからこそ経験できた事柄や出会った人たちの力が、私をここまで育ててくれたのだ」ということだ。ただ、時折「もし親父が生きていたらば、俺の人生はどんな風に過ぎていったのだろうか?」と考えてしまう■親父は生前、母に「お金を貯めて家族でブラジルに行き、事業を起こすぞ」と言っていたらしい。ブラジルで何をしたかったのかはわからない。今更ながら、子ども三人を残して34歳の若さで死に行く歯がゆさや、やりきれなさは、いかほどのものだったろうかと思う。仏壇で笑っている親父の写真は実に若い。若すぎる。その親父に手を合わせながら、自ら命を絶っていく人たちの苦悩を思いながら、「生きている者は、早くして亡くなった人のためにも、しっかりと生きていかなければならない」。今更ながら、しみじみと、そう思う。そして誓う。

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