« 2009年6月 | トップページ | 2009年8月 »

2009年7月

学童の日々 Vol 9

だるまさんがお風呂に入った

学童での遊びは様々。屋内では、お絵かき・読書・オセロ・将棋・トランプ・ブロック・ビデオ鑑賞・かくれんぼ・だるまさんが転んだ・花いちもんめ・ハンカチ落としなど。屋外では、サッカー・野球・ドッジボール・バドミントン・鬼ごっこ・ブランコ・すべり台・竹馬・グリコ・ひまわり・泥ダンゴ作り・砂遊びなど■面白いのは、私が知っている遊びの内容と少し違うこと。例えば、「だるまさんが転んだ」は、鬼が「だるまさんがお風呂に入った」というと、みんなはお風呂に入っているジェスチャーをしなければならない。「だるまさんがウンコした」と言えば、みんなはウンコスタイル。見てる分には面白いが、何を基準に鬼になるのかが未だにわからない。鬼ごっこにしても、氷鬼(こおりおに)とか高鬼(たかおに)とかある。凍り鬼は、鬼にタッチされるとしばらく凍りつき、仲間が股の下をくぐると生き返る、高鬼は、鬼より高いところにいればやられないとか・・・■泥ダンゴつくりは、今も昔も変わらず、硬くて大きいダンゴを作るのにみんな一生懸命だ。土選びから始まって、サラ粉(さらさらした土)を作り、水を加えて硬くしていく。しかし、みんなただ作るだけで満足している。ぼくらの時代は、作ったダンゴを持ち寄って、ジャンケンをして負けたら地面に置き、勝ったものが上から団子を落として、その硬さを競ったものだ。学童の子たちにその遊び方を教えたが「負けたら壊れるタイ。嫌だ」と却下された■私たちの時代の遊び道具といえば、ボールやビー玉やメンコぐらいで、石ころや五寸クギなども大事な遊び道具だった。のこぎりや肥後の守(ナイフ)を使って、竹を材料に竹とんぼや紙玉鉄砲なども自分たちで作ったりもした。私たちは路地裏や原っぱで、日が暮れるまで、陣取りや馬乗りや石けりや屋根死刑やひまわりなどの遊びに熱中していたものだ。今は遊びの道具に満ち足りている分、子どもたちの興味も多様化していて、同じ遊びはあまり長続きしないようだ。また、遊びのルールをきちんと教えるガキ大将もいなくなり、すぐに喧嘩が始まったりもする。しかし、それでも、学童の子達はその他の子らに比べると学年を越えての集団遊びが得意なようだ。学校の昼休みの外遊びの時間に集団で遊んでいるのは、学童の子らがほとんどだから・・・・。嬉々として走り回る姿を見ているとほっとする。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

学童の日々 Vol 8

七夕のねがい

 七夕の日には、子どもたちが作った飾りと、願いを書いた短冊が下げられた竹が、学童の部屋の中で風に揺れていた。短冊には子どもたちの願い事が・・・■一番多かった願い事はというと、やはり将来の職業の夢だった。男の子は「サッカー選手」女の子は「看護師」が多かった。その次は、「みんな仲良く楽しく暮らせますように」という、家族や友人たちの健康や幸福を願うものだった。面白かったのはというと、「どこでもドアがほしい・金持ちになれますように・魔法が使えますように・動物と話せますように」という贅沢な内容。でっかいのでは「地球温暖化が無くなりますように」「世界が平和でありますように」。現実的な願い事では「車に小さなテレビがほしい」「上手に泳げるようになれますように」「逆上がりができますように」などだった■受け狙いだったのか?「先生がいなくなりますように」と、ひどい事を書いた子が一人。こっぴどく叱られて書き直したものの、その子にとっては「学校や学童が無くなりますように」というのが本音だったのかも?「しあわせがおとずれますように」と書いた子もいた。今は不幸なのかと、少し心配になってしまう■いずれにしても、「地球温暖化や戦争も無くなり、家族や友人など、みんなが健康で幸福に暮らすことができる、子どもたちにとって夢のある世界でありますように」と願わずにはいられない。

Photo

| | コメント (5) | トラックバック (0)

学童の日々 Vol 7

職員は見張り番?

学童のおやつは午後4時からだ。毎日17班のテーブルに分かれておやつを食べる。その班を4グループに分けて職員4人で週ごとに担当して、静かに楽しくおやつが食べられるように指導する。月曜日のある日のおやつ時に、二年生のある女の子が私に、「今週の見張りは福永先生なんだ~」と言った。「見張りじゃないよ。担当だよ」と答えたものの、その子にとっては、私たち職員は、「見張り」なんだと、愕然とした■楽しいはずのおやつの時間なのに、私たちに注意される子どもたちが多くて、確かに見張り役に見えても仕方のないことかもしれない。外遊びにしても、木に登ったり、石を投げ合ったり、けんかを始める子などがいて目が離せない。そのたびに注意したり、仲裁したり、叱ったりしなければならない■毎日、学童に行くのを楽しみにしている子たちがいる一方、嫌々ながら仕方なく学童に来ている子たちもいる。一部の子どもたちにとっての学童は、きちんとすること、いい子でいることを強要される「行きたくない場所」なのだ。ある日、おやつ時に何回注意しても静かにできなかった二年生のR君と話をしている時、その子は泣きながら「本当は学童をやめたいんだ。でもお母さんがダメだと言うんだ」と訴える。学校でも学童でも「いい子」でいるよりも、誰もいない家で一人で自由にしていたいと思うのは自然な願いだろう。私はR君に「学童できちんとできるなら家に一人いても大丈夫。でも今のままじゃ無理だよ。学童をやめる四年生になるまでがんばろうよ」としか言えなかった■私は「見張り」ではなくて、学校からまっすぐ家に帰りたくても帰ることのできない一人ひとりの子どもたちの、思いや願いを受け止めて、少しでも叶える事のできる、「良き話し相手、援助者」にならなくてはと思う。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

学童の日々 Vol 6

 「ぼく(わたし)じゃないもん!」

 昔からそうなのだろうか?子どもたちの言動で気になることがある。それは、きちんと片づけができないこと。例えば、皆でおやつを食べていて誰かがテーブルの下にお菓子の袋を落としていても、誰も片付けない。注意すると「ぼく(わたし)じゃないもん」と言う■玩具のブロックで遊んでいた子どもたちに片づけをするように言うと「もう遊んでないもん」とか「ちょっと触っただけだもん」とか言う。外遊びに出る時、ボールやバットを手渡す。その時「きちんと片付けてね」と約束する。しかし、幾人かの子は片付けない。注意すると「最後は○○君が使ったもん」とか「置いていたけど、なくなった」とか言う。途中から他の遊びに加わり熱中して、借りたことさえ忘れる子もいる■ゴミ箱があふれて落ちたゴミを私が拾っていると、一人か二人は手伝ってくれるが、ほとんどの子が無関心。昔からそうだったのだろうか?「ぼく(わたし)じゃないもん」の言葉の背景には、私たちの世代も含めた「自分さえよければ」という悪しき意味での個人主義が見えてくる。大人たちの中にでも、誰も見ていない所では、車の窓から空き缶や吸殻を道路や空き地に捨てる者がいる。そんな大人に限って、自分の車の中だけはきれいにしている。道路や空き地がそうであるように、学童の建物や道具が「みんなのもの」という認識が、子どもたちには欠落しているのだ■学童では、毎日当番でトイレ掃除をしている。一人ひとりは掃除も片付けも上手だ。ほめると便器もピカピカに磨いてくれる。叱り飛ばすのではなくて、ほめて片づけが上手になるようにしなければいけないのだ。しかし、注意して「ぼく(わたし)じゃないもん」と言われると、カチンときてしまう今日この頃だ。

| | コメント (6) | トラックバック (0)

« 2009年6月 | トップページ | 2009年8月 »